桜吹雪が舞う夜に
俺は歩みを止め、酒井の方へ身体を向けた。
普段なら研修医や学生に向けるのは冷静なまなざしだ。だが今は違った。
声を発する前から、自分の奥底に眠る痛みが、勝手に言葉を引きずり出していた。
「酒井。……覚えとけ」
低い声が自然と漏れる。
「拡張型心筋症は、年齢なんか関係ない。子供でも、突然発症する」
脳裏に焼き付いた光景が蘇る。
痩せて、小さな身体で必死に呼吸する姿。笑おうとして、それでも苦しそうに眉を寄せる少女。
酒井の表情が固まるのを横目に、俺は続けた。
「……正直な話、俺だって見たくなかった。子供が苦しんでる姿なんて。親でもないのに、胸を抉られる」
言いながら、自分の喉がひりついた。
医師だからといって、誰よりも強いわけじゃない。
ただ、それでも立ち会わざるを得ない。
「……いつか治る病気なら、希望を持たせられる。『大丈夫、良くなる』って言える。
でも――あの病気は違う」
声が重く沈んだ。
酒井が眉を寄せ、言葉を失うのが見えた。
「“完治はすることない”って言ったよな」
わざとゆっくりと、区切るように繰り返す。
「……それを、まだ十代の子供に、嘘偽りなく伝えられるか?」
その問いは、目の前の学生に投げかけながら、同時に過去の自分にも向けているようだった。
理緒の顔が、どうしても頭から離れない。
酒井は俯き、唇を噛む。答えは返ってこない。
沈黙の中で、俺は短く吐き捨てるように言った。
「……答えなんて出なくていい。ただ覚えとけ。現実は、時にどうしようもなく残酷だ」
言った瞬間、自分の背中がひどく重く感じられた。
誰にも寄りかかれず、ただ一人で背負い続けていくしかない現実。
その感覚が、また胸の奥を締めつけていった。