桜吹雪が舞う夜に


夜の消灯間際。
点滴の滴るリズムだけが、静かな病室に響いていた。

理緒がふいに顔をこちらに向けて、少しだけ声を弾ませた。
「ねぇ、先生。……大学って、どんな場所だった?」

「大学?」
カルテに目を落としたまま聞き返す。

「うん。最近、友達がよく話すんだ。どこの大学行こうかなぁって」
理緒は少し照れたように笑って、毛布をぎゅっと握る。
「私、でも大学ってどんな場所か、全然知らないから……ちょっと、聞いてみたくて」

俺はペンの動きを止め、短く息を吐いた。

「……そうだな。大きなキャンパスに、無駄に広い図書館。授業の合間に、友達と食堂で馬鹿みたいに笑ったり。……サークルの連中と夜遅くまで飲んで、次の日の朝は講義で地獄を見る」

「ふふっ……」理緒が声を漏らす。
「楽しそう。……すごく、青春って感じ」

その言葉にかすかに視線を伏せる。
――彼女には訪れることのない、当たり前の時間。
そう思った瞬間、胸の奥を締めつける痛みが走った。

「……もし体調が許すなら、見学だけでも行けるといいな」
思わずそう口にすると、理緒は目を丸くして、ほんの一瞬、期待に瞳を輝かせた。
「……ほんと? そんな日が来るかな」

「……来るさ」
自分でも嘘だと分かっている言葉を、静かに返すしかなかった。

< 114 / 306 >

この作品をシェア

pagetop