桜吹雪が舞う夜に


礼拝後の廊下を並んで歩いていると、隣からふと小さな声がした。

「……教会って、あんなことも教えるんですね」

俺は足を止めて彼女を見やった。
「“あんなこと”って?」

桜は慌てて目を逸らし、耳まで赤く染めながら言葉を継ぐ。
「だって……結婚とか、性とか。……教会って、もっと“悪いことはやめましょう”とか“祈りましょう”とか、そういうことだけかと思ってました」

その照れくさそうな仕草に思わず口元が緩む。
「……父さんはそういう話を避けがちだった。でも俺は逆に、避けずに向き合った方がいいと思ってる」

「避けない方が……いいんですか?」

首をかしげる彼女を見て、俺は歩を進めながら言葉を続けた。
「誰だって考えることだからな。思春期に“性”を切り離すのは無理だ。だったら聖書をどう読むか、現実とどう折り合いをつけるか……一緒に考える方がいい」

それは自分でも、病院や大学で学生に語るときと同じ声の調子だと気づいた。冷静で、けれどどうしても熱がこもってしまう。

その時、横からまた声がした。
「……日向さんって、病院でも大学でも先生してるのに、教会でも先生してるんですね」

思わず苦笑して肩をすくめる。
「先生って柄じゃないけどな。……気づけば、どこでも誰かに教えてばかりだ」

そう口にしながら、自分でも少し驚いていた。
“先生”という役割から逃れたかったはずなのに、結局いつも人の前に立っている。

桜は俺を見つめながら、小さく呟いた。
「……やっぱり、すごい人だ」

胸の奥がわずかにざわつく。
俺が“すごい”わけじゃない。ただ、自分にできることを繰り返しているだけだ。
けれどその言葉を、彼女に否定されるのはなぜか怖くて、何も返せずに前を向いた。


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