桜吹雪が舞う夜に


「惹かれ続けてる、か……」

朔弥がわざとらしく肩を竦める。

「そういや最初に連弾した時も、俺が一方的に遊んでただけなのに、お前本気でついてきたよな」

桜がぱちりと瞬きをする。
「連弾……したんですか?」

「あぁ。昼休みの音楽室でな」
朔弥が笑いながら続ける。
「俺が勝手に左手でブルースの進行叩いてたら、隣に座ってきて……次の瞬間、完璧な対旋律をぶち込んできやがった。あれは鳥肌立ったわ」

桜が小さく首を傾げて言った。
「……対旋律って、なんですか?」

俺は思わず微笑んでしまう。こうやって素朴な疑問をぶつけてくるのが、彼女らしい。

「主旋律に絡むもう一つの旋律のことだ。クラシックではよく使う。バッハが典型だな。ソプラノが旋律を歌えば、アルトが別の旋律を重ねていく。響き合って、全体で一つの音楽になる」

桜は「へぇ……」と目を丸くして続きを待つ仕草をした。

「理論としては俺も叩き込まれてるし、譜面に書かれていれば弾ける。そこは訓練の成果だ」

――だが、そこで言葉が途切れた。
胸の奥に、昔から抱えてきた劣等感が浮かぶ。

「……でも、その場で生み出して組み立てるとなると話は別だ」
自嘲するように視線を落とす。
「朔弥はそれができる。即興で“会話”できる。……俺にはできない」

桜は戸惑うように首を傾げた。
「同じピアノなのに……?」

「同じでも、違うんだ」
言葉が少しだけ熱を帯びる。
「クラシックは“譜面通りに完璧に弾く”ことを求められる世界だ。俺はずっとその中で生きてきた。……正解のない世界で会話するのは、どうしても苦手だ」

譜面の奴隷。
そう昔、朔弥にからかわれた言葉がふと頭をよぎる。
けれど、それでも俺はこの世界で戦ってきた。
誇りでもあり、同時に限界でもある。

桜はじっと俺の横顔を見つめていた。
その眼差しに、どこか尊敬と戸惑いの入り混じった色が浮かんでいた。

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