桜吹雪が舞う夜に

黙って聞いていた朔弥が横槍を入れる。

「難しく考えすぎなんだよ。即興ってのはさ、話すのと一緒だよ。俺がお前に“今日は何飲む?”って聞く。お前は“ハイボール”って返す。そこに譜面いるか?」

朔弥は肩肘張らない口調で言う。
だが俺にはどうしても、その軽やかさが掴めない。

「……理屈としては分かる。でも、それを音でやるってなると、やっぱり全然イメージできない」
気づけば眉間に皺が寄っていた。

朔弥はグラスをくるりと回しながら、面白そうに続ける。

「だから面白いんじゃん。クラシックは“完璧”を目指す音楽。ジャズは“会話”を楽しむ音楽。どっちも音楽だけど、土俵が違う。
お前はさ、完璧な答えを用意しなくてもいい、っていう状況に慣れてないだけだよ」

俺はしばらく黙ったまま、氷の音を聞いていた。
胸の奥で、小さなざわめきが広がる。

「……譜面なしで音を出すのが、怖いんだろうな」
自嘲気味に吐き出すと、朔弥はすぐさまにやりと笑う。

「ほらな。譜面の奴隷って、自分で認めたな」

苦い感情が喉元まで込み上げてきて、俺はグラスを置き、指先でカウンターを軽く叩いた。

「……でもさ。たとえば、せいぜい“ハイボール”か“ビール”だろって思ってた相手が、急に“ワイン”って言い出したらどうするんだ?
会話に詰まらないのか? 音が止まっちまわないのか?」

自分では至極真面目に問いかけたつもりだった。
だが朔弥は一拍のあと、吹き出した。

「ははっ、なるほど。やっぱりお前、クラシックの人間だな。答えを先に決めときたいんだ」

その笑いが癇に障って、思わず眉をひそめる。
「……冗談で聞いてるわけじゃない。俺はそういう“想定外”に弱い」

「だからこそジャズなんだよ」
朔弥は指先でカウンターをリズムよく叩きながら、楽しげに返す。
「相手が“ワイン”って言ったら、“どんなワイン?”って聞き返せばいい。赤か白かでまた違うだろ。……会話が広がるんだよ」

俺はしばらく黙り込み、グラスを傾けた。
「……なるほどな」

口ではそう言ったものの、心の奥ではまだ受け入れきれずにいた。
――“答えを先に決めない”なんて、自分にとっては最も不安な領域だったからだ。
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