桜吹雪が舞う夜に


言葉に呑み込まれてうまく返せず、視線を逸らした私に、水瀬先生はすぐさま次の矢を放った。

「桜ちゃん、日向が初めてだったの?」

「……っ」
胸の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。
どうして、そんなことまで……。

「な、なんで……そんなこと、聞くんですか」
声はかすれて、思うように強さを持てなかった。

「別に。ただ、気になっただけ」
水瀬先生は肩をすくめ、カップの中の液体を軽く揺らす。
その横顔は冷静で、からかっているわけでも、心底興味があるわけでもない。
ただ、こちらの反応を試して楽しんでいるように見えた。

「……っ」
言葉が続かず、俯いたままノートをぎゅっと抱え直す。
頬の熱さと、胸のざわつきが止まらなかった。

「桜ちゃん、やっぱり日向の恋人なのね。
……あの人と同じ。必要以上に神聖視しすぎてる。実際のところ大したことないわよ、あんな行為。
私からしたらね、セックスなんてもっと軽く考えた方がいいと思うの。楽しめばいい。大人同士なら自然なことなんだから。……日向みたいに、必要以上に重く捉える方が、かえって苦しくなる」

胸に、ざらりとした感情が広がる。

ーー日向さんは、そんな風には言わなかった。
彼にとっては、それは責任であり、信頼であり、愛情の証だった。
「欲」と「愛情」を分けて考え、それでも「失いたくない」という気持ちを何よりも優先する人だった。

「……そんな風には、考えられません」
気づけば小さく声が漏れていた。

水瀬先生はふっと目を細めて私を見た。

「そうね。だからあなたは彼に選ばれたんだと思う」

皮肉でも、褒め言葉でもない。ただ静かな事実を告げるような口調だった。



視線を落とし、強くノートを抱きしめるしかなかった。
ーーこの人は自分の知らない世界を、あまりにも知っている。そんな気がした。


その時、先生の首からぶら下げられた黒い院内PHSが甲高い電子音を響かせた。
水瀬先生はすぐにそれを掴み、表示を確認すると、あっさりと私に背を向けた。

「呼ばれちゃった。……じゃ、またね」

髪を払い、颯爽と歩き去る背中。
残された私の胸には、強烈な動揺と、言葉にできない悔しさだけが残った。



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