桜吹雪が舞う夜に

夜想曲 Hinata Side.



彼女に酷な決断を迫っているのは、分かっている。
まだ二十歳の学生に、将来の診療科だとか、子供だとか、そんな重たい選択を突きつけている。

(……俺が彼女と同じ大学2年だった頃、何を考えていた?)

思い出すのは水瀬との日々。
「いつか結婚したいな」なんて軽口を叩いたことはあった。
けれどそれは、真剣な議論でもなければ現実味のある話でもない。
多分、水瀬の方は全く本気にしていなかっただろう。

その証拠に、ある時ふと彼女が「私、子供が欲しいなんて一度も思ったことない」と笑いながら言った時も、俺は特に何も感じなかった。
ただ「そうか」と流して、話題はすぐ音楽や試験の愚痴に移った。
それくらい、未来を現実として受け止めていなかった。


俺の興味の大半は、ロックバンドの練習にあった。
夜通しスタジオにこもり、騒がしいアンプの音に身を浸し、
その合間にどうにか試験勉強をこなして、余った時間を水瀬に費やしていた。

未来なんて、遠くぼんやりと霞んでいた。
結婚や家庭なんて言葉は、たしかに口にしたけれど、責任を伴った夢ではなかった。

(……それに比べて、今の俺はどうだ)

桜に対しては、現実を一つ一つ突きつけ、堅苦しい未来図ばかり並べている。
彼女が「今」を生きようとしているのに、俺は「先」を見せすぎている。

鍵盤に置いた指先が、わずかに震えた。
彼女を守りたいだけなのに、その守りが檻になるのだとしたら――
俺はまた、大切なものを失うのかもしれない。


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