桜吹雪が舞う夜に


それでも――音にすがるしかなかった。
言葉を尽くせば尽くすほど、彼女を追い詰めてしまう。
ならせめて、この手で奏でる旋律に、少しでも安心を与えられるなら。

鍵盤に指を置き、深く息を吸う。
静かに流れ出すノクターンの調べが、部屋の重苦しい空気を少しずつ溶かしていく。

向かいに座る桜は、目を閉じて聴いていた。
さっきまで涙をこらえて震えていた肩が、音に包まれて少しずつ和らいでいくのが分かる。

(……俺は、彼女に未来を背負わせすぎているのかもしれない)
(でも、もし音ひとつで心を軽くできるなら……まだ俺にできることはある)

低音から高音へ、ゆるやかに流れていく旋律の中に、祈りのような想いを込めた。
彼女が道に迷っても、苦しんでも、俺は隣で支えられる。
そう信じたい――いや、そう信じるしかなかった。

最後の和音が静かに消えたとき、桜は目を開け、そっと微笑んだ。
言葉はなくても、その笑顔が今は何よりの救いだった。

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