桜吹雪が舞う夜に
大学二年、秋

優しさの檻 Sakura Side.



夏休みも終わり、秋の気配が深まる中、サークルの飲み会が一度あった。
大音量の音楽と笑い声に包まれた居酒屋の片隅で、私は酒井先輩と並んで座っていた。

先輩は私の空いたグラスを見るとすぐに
「何か飲む?」と聞く気遣いを見せてくれて、
その度にやっぱり頼りになる先輩だと思う。

話題は主にサークルのことや勉強のことが中心だったけれど、
先輩はそのうちに、ふと思い出したようにこう言った。

「桜ちゃん。そういえば、御崎先生とは最近どうなの。上手く行ってる?」

問いかけに、胸が少し弾んだ。
グラスを両手で包み込み、私は微笑む。

「はい。最近……館山に旅行に連れて行ってくれて……」

言葉を口にするだけで、あの穏やかな時間がよみがえる。
海を見ながら二人で過ごした、夢のような一泊。
波音と風の匂い、彼の隣で感じた安心感。思い出すだけで胸が温かくなる。

けれど、酒井先輩は首をかしげるように、じっと私の横顔を見つめていた。
「……何か、でも浮かない顔してない?」

私は思わず視線を落とす。
グラスの中で氷がカランと揺れた。
胸の奥にある迷いを隠そうとしても、きっと表情には出てしまっているのだろう。

「ち、違うんです……」
とっさに口をついて出た言葉は、否定だった。
違う、違う、違う。幸せなはずなのに。そう言い聞かせるように。

「ひ、日向さんって本当に優しいんですよ。

帰り遅くなると絶対に送ってくれるし、
車道側必ず歩いてくれたり。
こないだの旅行だって、何から何まで全部奢ってくれて。
……そんなので、不満なんてあるわけないです」

声が少し震えてしまったのを、自分でも感じた。
本当は、不満じゃなくて、ただ胸が苦しくなるだけ。
守られているはずなのに、その優しさに押し潰されそうになる瞬間がある。
けれど、そんなこと言えるはずもない。

「……優しいね。あの人らしい……俺には真似できないな」

酒井先輩は苦笑混じりに言い、ジョッキを軽く揺らした。
その横顔に、私は返す言葉を失って、ただ黙ってグラスを傾けた。

< 212 / 306 >

この作品をシェア

pagetop