桜吹雪が舞う夜に


酒井先輩は、私の返事を聞いた後もしばらく黙っていた。
居酒屋の喧噪の中で、氷が溶ける小さな音だけが耳に残る。

やがて、彼は低く、少しためらうように口を開いた。

「でも……それって、ちょっと重くない?」

思わず顔を上げる。
「え……」

「いや、別に悪い意味じゃないんだ。
先生の優しさは、本物だと思うし、俺だって尊敬してる。
でもさ……」
酒井先輩はジョッキを指先でなぞりながら、言葉を選ぶように続けた。

「送り迎えも、全部奢るのも、何から何まで守ってくれるのも……
それって、裏を返せば“お前は俺がいないとダメだ”って言われてるみたいでさ。
……桜ちゃん、息苦しくならない?」

胸の奥がきゅっと縮む。
言葉にできずに俯いた私を見て、酒井先輩は小さく息をついた。

「ごめん。余計なこと言ったな」

そう言って笑顔を作ろうとする先輩の横顔が、妙に滲んで見えた。
本当は違う、幸せなんだと、声に出して否定したいのに。
喉の奥が固まって、何も言えない。

グラスの中の氷はすっかり溶けていて、
澄んだ水に映る自分の顔が、弱々しく揺れていた。


< 213 / 306 >

この作品をシェア

pagetop