桜吹雪が舞う夜に
「へぇ……日向、案外そういうことさらっと言うんだな」
朔弥がカウンター越しにからかうように笑った。

「……別に」
俺は少し眉を寄せて、グラスを置いた。
「事実を言っただけだ」

桜が「ふふ……」と小さく笑い、氷の溶けかけたジンジャーエールをストローでつつく。
その仕草が、やけに幼く見えて、胸の奥が柔らかくなる。

場の空気を和らげるように、朔弥が新しい話を振った。
「そういやこいつさ、学生時代もっとお上品なバイトもしてたんだよ」

「お上品な……?」
桜が不思議そうに首を傾げる。

「東京駅の前にある高級ホテル。あそこのディナーレストランで、たまにピアノ弾くバイトやってたんだよ。燕尾服みたいなの着てさ」

「えっ……ホテルで、ピアノ?」
桜の目が、驚きでぱっと大きく見開かれた。

「……そんな大したことじゃない」
俺はカウンターに肘を置き、視線を少し逸らした。
「譜面通りに弾くだけの仕事だ」

「でも、かっこいい……」
ぽつりと零れたその言葉は、本人さえ気づいていないほど自然だった。

喉の奥が詰まる。
たった一言なのに、どうしてこんなに響くんだろう。
褒められることに慣れているはずなのに……桜に言われると、全然別の感覚になる。

「家庭の事情で音高辞めちゃったの、正直残念だったけどな」
朔弥が懐かしむように言った。
「でも今は立派なお医者さんだもんな。……そりゃ、ピアノよりも人の命救うほうが大事だ」

その言葉に、桜の視線が横から突き刺さる。
俺を見上げる彼女の目には、普段とは違う驚きと尊敬が混じっていて。
「……あぁ、やっぱり俺は、この子に見られ方を気にしてる」
そう気づいて、苦笑が胸の奥で小さく零れた。
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