桜吹雪が舞う夜に
「確か、課題曲はーー木枯らしだったかな。あんな速くて難しい曲を、よくあそこまで弾き切ったもんだよ。俺は指が何本あっても足りない」
朔弥さんが遠い目をして言う。
思わず、身を乗り出していた。
「……聴いてみたいです……」
「だろ? あれは圧倒的だった。俺なんか横で震えながら聴いてたし、“プロになる人”の演奏って、きっとこういうのなんだって思った」
その声には、羨望とほんの少しの悔しさが混じっていた。
――そんな人が、自分の恋人なんて。信じられない。
そのとき、入口のドアが開き、背の高い影が差し込んだ。
振り向いた瞬間、心臓が跳ねる。
そこに立っていたのは……日向さんだった。
「あ、日向」
朔弥さんが軽く手を挙げる。
「ちょうどお前の武勇伝で盛り上がってたとこだよ。ジュニアコンクールの“木枯らし”の話」
「……余計なことを」
低い声。眉をひそめる横顔に、鼓動が一気に跳ね上がる。
(聞かれてた……? わたしが、“聴いてみたい”って言ったの……)
朔弥さんは空気を読まずに笑った。
「やっぱ伝説だろ、お前のピアノは」
「もう昔の話だ」
日向さんは鬱陶しそうに息を吐き、カウンターに腰を下ろす。
それでも、横目で私の反応を探っているのがわかった。
「でもさ、今でも弾こうと思えば弾けるだろ? あれ」
朔弥さんの言葉に、胸がどくんと高鳴る。
短い沈黙のあと、日向さんは静かに言った。
「……あのな。俺だって一応、まだピアノに関してはプライドがあるんだよ」
視線を落としたまま、続ける。
「ろくに練習できてない曲を、大事な人の前で弾きたいなんて思わない」
その言葉に、頬が一瞬で熱くなった。
――大事な人。
それが自分を指しているのだとしたら。