桜吹雪が舞う夜に

孤独なピアノ Hinata Side.



静まり返った部屋に、ただ一台、黒光りするファツィオリが置かれていた。
磨き込まれた天板は夜の光を吸い込み、まるでこちらを睨み返す獣のように反射している。

譜面台に置かれたショパンの楽譜には、かつて自分が日夜惜しんで練習を重ねていた痕跡が残る。
細かい書き込み、赤鉛筆で強調された記号、指番号の修正跡。――あの頃の自分の息遣いが、紙に染みついていた。

ふと耳の奥に蘇る、教官の声。

「音を正しく並べるな。音と音の“間”を支配しろ」
「指で弾くんじゃない、腕全体で“呼吸”をさせろ」
「お前が震えれば、音も震える。だから震えを恐れるな」

ひとつひとつが、かつて胸を打ち抜いた言葉だった。


椅子に腰を下ろした瞬間、心臓が大きく跳ねた。
どうしてもこのピアノの前に立つとーー戦場に足を踏み入れた兵士のような気分になる。
逃げ場はない。白と黒の鍵盤は敵味方入り乱れる陣形のように並び、
一音の誤りさえ許されぬ緊張を突きつけてくる。

指先を置く前から汗が滲む。
過去の舞台の記憶、積み重ねてきた音。
それらすべてがこの黒い鏡に映し出され、
「本当に今でも弾けるのか」と問い詰めてくる。


震える手で、一音だけ鍵盤を押した。
澄んだ音が、部屋に広がる。
ーーまだ、自分の呼びかけに応えてくれている。
その感覚が確かにあって、胸の奥が少しだけ緩む。

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