桜吹雪が舞う夜に

やがて楽譜の通り、曲の始まりを告げる鐘を鳴らす。

――深く、重たい響き。
低音が床を伝って胸に沈み込むと、空気そのものが震えた。
窓の外に広がる夜の闇が、波紋のように揺らぐ気がした。

右手を重ねる。透明な旋律が、黒い夜に白い線を引くように流れていく。
一瞬、確かに昔の感覚が蘇る。
指が勝手に音をつなぎ、光の糸のようなメロディが部屋を駆け抜けた。

……だが、すぐに音は崩れる。
鍵盤を叩く指がもつれ、旋律は途切れ途切れに落ちていった。
まるで真っ白なキャンバスに墨を垂らしたように、乱れた音が広がる。

「……駄目だ」
思わず口からこぼれる。

それでも、手を止められなかった。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、あの日、朔弥に茶化されながらも「聞きたい」と言ってくれた桜の顔。
その瞳に恥じない音を、もう一度。

左手で低音を叩く。重たい波が打ち寄せる。
右手で和音を重ねると、波に月光が差すように柔らかさが宿る。
部屋いっぱいに広がるのは、夜の闇を切り裂いてゆく光と影の交錯。

――まだ、不完全だ。
でも確かに音は生きている。
桜に聴かせたいと思うだけで、旋律が少しずつ形を取り戻していく気がした。

「……もう一度、あの頃みたいに」
呟きながら、背筋を伸ばし、再び指を走らせた。
夜更けの部屋は、譜面の線が音になり、音が光になって、静かに満たされていった。

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