桜吹雪が舞う夜に

触れられない Hinata Side.


照明を落としたジャズバー。
静まり返った店内で、片付けの音だけが響く。氷を片付けていた朔弥が、ふと軽く口を開いた。

「桜ちゃん、今夏休みなんだろ? 泊まりの旅行でも連れてってやれば。……だめなのか?」

「……」

俺は黙ってグラスを口に運んだ。
透明な液体が喉を落ちていく。ほんの一瞬、手の動きが止まったのを朔弥は見逃さなかった。

「……しばらく学会の準備で立て込んでるんだ」
低い声で答えながら、空になったグラスをカウンターに置いた。
「彼女は彼女で、車の免許を取ったり、サークルの合宿で忙しいっていうし」

「ふうん……大学1年の夏休みか」
朔弥は肩をすくめ、マドラーを指で弄んだ。
「受験からも解放されて、一番楽しい時期だろうな。……お前が別にいなくたって」

胸の奥がかすかに疼いた。
「……楽しそうな写真ばっかり最近送ってくるよ」
唇をわずかに歪めて、吐き出すように言った。
「サークルの合宿で海に行った。友達とディズニーランドに行った。他大の医学部と交流会をやった……」

言葉にしながら、胸の奥で小さな焦りがじわりと広がっていく。
自分は会議室と病棟と自宅を行き来するだけの日々。
あの笑顔の写真たちの中に、自分はいない。

少し間を置いて、かすかに首を振る。
「……大体、泊まりの旅行って。まだそんな関係じゃ、ない気がする」

その瞬間、朔弥がふっと笑みを浮かべ、わざと軽い調子で言葉を放った。
「じゃあさ、いつになったら“そういう関係”になるんだ?」

胸の奥を突かれたように、グラスを持つ手が止まる。
溶けかけた氷が静かに沈むのを眺めながら、言葉を探した。

「……俺にも、分からない」
掠れる声が、自分でも情けなく響いた。

「分からないって。お前らしくないな」
朔弥は冗談めかして笑ったが、その目は笑っていなかった。

俺は視線を伏せたまま、指先に力を込める。
「……焦って壊したくないんだ」
グラスの縁を無意識になぞりながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「まだ学生の彼女に、俺の欲や立場を押し付けるわけにはいかない。……そう思ってるはずなのに」

胸の内に渦巻く葛藤が、言葉にしてもなお消えず、喉の奥で苦く澱んでいた。
(抱きしめたい。欲しい。それでも……手を伸ばせない)

静寂を裂いたのは、氷が崩れる小さな音。
朔弥はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめ、息を吐いた。
「……まぁ、そうやって真面目に考えるお前だから、桜ちゃんも安心してるんだろうけどな」

俺は目を伏せたまま、何も返さなかった。
ただ、胸の奥で燃える衝動と、それを押し殺す理性とがせめぎ合っているのを、苦々しく感じていた。



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