桜吹雪が舞う夜に
資料を見下ろしたまま、酒井が恐る恐る問いかけてきた。
少し迷ったが、どうせ三日も付き合わせるのなら、ただの作業としてやらせるより背景を知ってもらった方がいい。
「心エコーのデータだ」
俺は白衣のポケットからペンを取り出し、プリントの端を指で示した。
「ここに書いてある“LAD”“IVC”っていうのは、それぞれ冠動脈の狭窄率とか、下大静脈の径と変動のことを指してる。心不全の患者で、輸液の適応をどう判断するか――その解析をまとめてるところだ」
酒井は真剣な眼差しで頷いたが、すぐに眉を寄せて小さく呟いた。
「……なるほど。授業で聞いたことはありますけど、こうやって実際のデータを見ると、まだ全然イメージできなくて……」
「当然だ」
ペン先でデータの欄を軽く叩きながら、淡々と返す。
「君はまだ二年だろう。今の段階で完璧に理解できるやつなんていない。ただ、数字を正確に打ち込むだけで十分助かる」
安堵の色がわずかに浮かんだのを見て、俺は思わず口元を緩めた。
「それに……これも勉強だ。心臓を診るっていうのは、こういう小さな数字の積み重ねから始まるんだ」
酒井は真剣に頷き、キーボードに手を伸ばした。
まだ動きはぎこちないが、そこには確かに学ぼうとする姿勢があった。
俺は腕を組み、無言でその背中を見つめる。
ーー桜の知り合いなのかもしれない。
その考えが再び頭をかすめたが、すぐに振り払った。