桜吹雪が舞う夜に
廊下に出ると、病棟特有の薬品の匂いと、誰かが駆け足で通り過ぎる靴音が響いた。
時計を見ると、まだ勉強会までは少し時間がある。

横を歩く酒井が、緊張を隠せない面持ちで口を開いた。
「……あの、先生。正直に言っていいですか」

「ん?」
俺は足を緩め、横目で見やった。

「循環器って……やっぱりハードなんですよね。毎日遅くまで働いてて……先生方、倒れないのかなって」
率直な不安がにじむ声。

思わず苦笑が漏れた。
「まぁ、楽な科じゃないよな。夜中でも呼ばれることはあるし、休みが飛ぶことも普通にある」

「やっぱり……」酒井は小さく息をついた。

「でも」俺は言葉を区切り、階段の踊り場で足を止める。
「その分、やりがいも大きい。心臓っていうのは、生きるために止められない臓器だ。そこに直接関われるのは、間違いなく特権だよ」

酒井の目が驚いたようにこちらを見た。
ーー真っ直ぐな視線。まるで昔、自分が学生だった頃の同級生や後輩を思い出すような眼差しだった。

「先生は……どうして循環器に進もうと思ったんですか?」
小さな問いに、一瞬だけ言葉を探す。

「……いろいろ理由はあるけど」
少し笑って、廊下の窓から見える夕焼けを眺めた。
「結局は、“助けられる命がそこにある”って思ったからだな」

酒井は何も言わず、ただ深く頷いていた。

「行こう。そろそろ始まる」
そう告げて歩き出す。
横で必死にメモ帳を握り締めている酒井を見て、心の中でひとつ願った。

ーーこういう真剣さを、長く保てる医師になってほしい。

< 67 / 306 >

この作品をシェア

pagetop