桜吹雪が舞う夜に
勉強会を終えて病棟を出ると、廊下の先に桜の姿が見えた。
カルテを抱えた研修医とすれ違いながら、ふっとこちらに気づいて小さく手を振ってくる。
「お疲れさまです、日向さん」
声が聞こえた瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。どんな一日の終わりでも、彼女の笑顔を見ると張り詰めていたものが解ける。
「お疲れ。こんなところで何してた?」
「サークルの先輩に、病棟見学に誘っていただいて……」
桜は微笑んで肩をすくめた。
そしてふと首を傾げ、言葉を続ける。
「……あれ? さっき一緒にいたの、酒井先輩じゃなかったですか?」
その名前が出た瞬間、心臓がわずかに音を立てた。
表情に出すまいと努めながらも、視線は自然と彼女に向かう。
「……知り合い、らしいな?」
「はい。同じサークルなんです。二年生で、すごく頼りになる先輩で……」
桜の言葉が耳に残る。頼りになる、という響きがどうしても胸の奥に引っかかった。
「……そうか」
声を低く抑えて返す。
それ以上何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。
横で彼女が小さく息を呑む気配がする。
ーー今、顔に出たかもしれない。
病棟に響くナースコールの音と看護師たちの声。
その喧噪の中で、俺と桜の間だけに重たい沈黙が落ちた。