桜吹雪が舞う夜に

夏の終わり Hinata Side.


学会もようやく終わり、仕事がひと段落したころには、桜の夏休みももう終わりに差し掛かっていた。

閉店後のジャズバー。
客が引けて静かになった店内に、氷の溶ける音だけが小さく響く。

カウンターの隅でグラスを片付けている桜を見ながら、ふと胸の奥に溜まっていた思いが口をついて出る。

「……桜。今日は、終わったら……俺の家に来ないか」

自分でも唐突すぎると分かっていた。
けれど、このまま別々に帰るのが惜しくて。
どうしても、彼女にピアノを聴かせたい衝動が抑えられなかった。

ーーこの夏の間に、ショパンのあの曲は個人的にはなんとか聴かせられるレベルには仕上げることができていた。

「……え?」
桜がこちらを振り返る。大きな瞳が揺れ、戸惑いが一瞬で伝わってくる。

すかさず、横から朔弥の声が飛んだ。
「おっと出ました!お決まりの“何もしないから”ってやつな。桜ちゃん、気をつけろよ〜」

「……余計なことを言うな」
低く返すが、朔弥は面白そうに笑っているだけだ。

桜は頬を赤く染め、慌てて視線を逸らした。
「い、いや……そんな、変な意味に考えてなくて……」

胸の奥が締めつけられる。
本当に、変な下心なんてない。ただ、ピアノを弾きたかった。
そして、その音を彼女に聴いてほしかった。それだけなのに。

「……信じてくれ」
無意識に言葉が漏れる。
「今日は……ただ、ピアノを聴かせたいだけなんだ」

桜はしばらく黙ったまま、カウンターの縁を握りしめていた。
その横顔を見ながら、心臓が痛いほど強く打つ。

< 70 / 306 >

この作品をシェア

pagetop