桜吹雪が舞う夜に



桜は視線を落としたまま、しばし迷っているようだった。
けれど、やがて小さく頷いた。

「……聴いてみたいです。日向さんの、ピアノ」

その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ただ一緒に過ごしたいという衝動が、ようやく彼女に届いた気がした。

「……ありがとう」
短く返すと、桜はまだ不安そうに笑みを浮かべる。
その表情に、彼女を無理に連れ出すのではなく、安心させたいと強く思った。

ジャズバーを出ると、晩夏の夜風がひんやりと頬を撫でた。
もう秋が始まろうとしているのだと思った。
駅の方向へ歩き出そうとする桜に、俺は車のキーを掲げる。

「……送る。電車じゃなくて、俺の車で」

「……はい」
小さな声で頷くと、ふたりは並んで歩き出した。

駐車場に停めた車に乗り込むと、車内は不思議なくらい静かだった。
エンジン音とタイヤの擦れる音だけが流れていく。

「……その、楽しみです」
桜が窓の外を見ながら呟く。
「日向さんのピアノ、きっと……私の知らない顔が見られる気がして」

ハンドルを握ったまま、ふっと笑みが溢れた。
「期待しすぎるなよ。もう昔みたいには弾けないかもしれない」

「……それでもいいです。聴きたいんです」

その素直な言葉に、胸が熱くなり、アクセルを踏む足にわずかな力がこもった。
夜の街を抜けていく灯りが、まるで舞台へ向かう照明のように瞬いていた。


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