桜吹雪が舞う夜に
マンションのドアを開けた瞬間、湿った夜気が背後に閉じ込められた。
桜の気配を背に感じながら部屋に足を踏み入れると、静けさの奥で黒光りするファツィオリが存在を主張していた。
あの艶やかな影は、俺にとって楽器である以上に、戦場そのものだった。
靴を脱いで部屋に入る桜の視線が、自然とピアノに吸い寄せられているのを感じる。
その横顔に気づきながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
「……あれが、ファツィオリ」
彼女の小さな声。
俺は短く頷く。
「そう。練習するときは、全部あれにぶつけてる」
――本当は練習なんて言葉で済ませられるものじゃない。
鍵盤の前に立つと、必ず自分の弱さや、過去や、失いかけた誇りと向き合うことになる。
リビングの奥。
ファツィオリの前に立ち、鍵盤の蓋に手を置いた。
桜の視線が背中に注がれているのを感じながら、言葉が自然に口をついた。
「……本当に聴きたいのか」
振り返らずに問う。
すると背後から、震えを含んだ声が届いた。
「……もちろんです。ずっと、聴いてみたかったから」
その真っ直ぐな言葉に、胸の奥が熱くなる。
だが同時に、指先が重く感じられた。
「……俺はな、練習できてない曲は人に聴かせたくない」
自分自身へ言い聞かせるように呟く。
「礼儀なんだ。音楽に対しての」
それでも、桜は言った。
「私、日向さんの音なら全部……聴きたいです」
視線を落としたまま、しばし動けなかった。
やがて肩の力を抜き、鍵盤の蓋を静かに開く。
白と黒の並びが夜の光に照らされて、淡く浮かび上がった。
深く息を吸う。
指を鍵盤に置く。
その瞬間、背後で小さく息を呑む音がした。
一音目。
祈るように、鍵盤を叩いた。
ただの和音。だが部屋の空気は一変し、低音が床を伝って胸に響く。
ファツィオリが確かに応えてくれている。まだ、俺の呼びかけに。
(……ありがとう)
胸の奥でそう呟く。
二音目、三音目と続ける。
旋律は形を成し、張り詰めた空気が部屋を満たす。
まるで音そのものが祈りとなり、静かな夜を清めていくようだった。
背後に座る桜の気配を感じながら、ただひたすらに音へ祈りを込めた。