桜吹雪が舞う夜に



最後の和音を押さえると、音の残響が部屋の隅々まで染み込んでいった。
やがてそれも静かに消えていく。
ただ、自分の心臓の鼓動だけが残されているように感じられた。

……祈りを終えた後のような静けさ。
鍵盤の上に置いた指先がまだ熱を帯びていて、離すのを躊躇う。

深く息を吐き、ゆっくりと鍵盤から手を引いた。
視線を上げると、ソファに座る桜がじっとこちらを見つめていた。
口を開くことも忘れているように、ただ見惚れて。

「……すごい」
小さな声が零れ落ちた。

その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
けれど同時に、心のどこかで冷静な自分が呟いていた。
(もう俺は、この舞台で生きている人間じゃない)

音楽家としての夢を手放し、医師としての道を選んだ。
そのはずなのに、今もこうして音を祈りのように捧げている。
それは未練か、それともただの習性か。

「……ありがとう」
思わず声が漏れる。誰に向けてか、自分でも分からなかった。
桜にか、それともピアノにか。

彼女は目を潤ませながら、小さく首を振った。
「こちらこそ……聴かせてくれて、ありがとうございます」

その言葉に、心臓がまた強く跳ねた。
ーーこの人が隣にいてくれるだけで、今の自分は救われている。

ピアノの余韻は消えても、胸の奥のざわめきはまだ静まらなかった。

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