桜吹雪が舞う夜に
演奏を終えても、鼓動が速いのがなかなか収まることがなかった。
「……少しコーヒーでも飲んだら、帰すよ」
できるだけ淡々と口にする。
「何もしないって約束したからな」
言葉にした瞬間、胸の奥が微かに痛んだ。
本当は、ずっとこのまま隣にいてほしかった。けれど、それを口に出すわけにはいかない。
ホットコーヒーを注いでテーブルに置くと、並んでソファに座る。
桜は柔らかく「ありがとうございます」と微笑んだ。
しかしそのまましばらく、目の前に置かれた黒い液体が波紋を打つのを、じっと眺めているように見えた。
やがて、小さく唇を結んで俯き……そして、意を決したように顔を上げた。
「……まだ、帰りたくないです」
その言葉は、驚くほど真っ直ぐに響いた。
思わず俺の手が止まる。
「……桜」
声が掠れて、自分でも制御できていないのが分かる。
「だって……」彼女はカップを握りしめたまま、震える声で続ける。
「今日のピアノ、もっと聴いていたかったし……まだ、日向さんと話したいことも、いっぱいあるから」
目を逸らそうとするが、彼女の瞳が必死に俺を追ってくる。
熱を孕んだ視線に射抜かれ、胸の奥が軋む。
「……本気で言ってるのか?」
問いかける声は、自分でも驚くほど低くなっていた。
桜は小さく頷いた。
その仕草があまりにも幼くて、それでいてどうしようもなく愛おしくて、俺は思わず額に手を当てる。
「……駄目だな。君にそう言われると、全部抑えるのがきつくなる」
言葉と同時に、胸の奥で揺れていた理性が大きく波打った。