桜吹雪が舞う夜に


「バイト、今終わりました。日向さん、帰ってますか?」

携帯を握りしめたまま、足が震える。送信ボタンを押してしまった以上、もう後戻りはできなかった。
「……日向さん」
夜の街を急ぐ足取りの中、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。

──既読。
画面の端に、小さな通知が浮かぶ。

『帰ってるよ。今どこだ』

胸が熱くなった。
迷わずに、彼の部屋の前へ向かう。

ドアが開くと、白いシャツ姿の彼が立っていた。少し疲れた表情。それでも、会えたことに安心して、思わず口が動く。

「……突然、ごめんなさい。会いたくなって」
気づけば言っていた。

日向さんは一瞬だけ目を細めたけれど、拒まなかった。
「……上がれ」

部屋に入った途端、言葉が零れた。
「……こないだのこと。すみませんでした。嫌だって、言ってしまって」

沈黙が落ちる。けれど、彼は眉ひとつ動かさず、静かに首を振った。
「……謝る必要ない。俺も、突然悪かった」
そして、少し目を伏せる。
「言った通りだよ。桜が嫌なら、無理にとは言わない」

胸がきゅっと締めつけられた。
(……やっぱり、この人は優しい。なのに、私は……)

絞り出すように口を開く。
「……私、嫌じゃない。ただ、怖いんです」
視線を落とし、握った拳が震える。
「知らないから……」

言葉の最後は、かすれて消えた。
彼の前で初めて、自分の弱さをそのままさらけ出してしまった。

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