桜吹雪が舞う夜に
閉店後の店内。
客が引けて静まり返ったカウンターに、一人腰掛けてグラスを傾けていた。
氷の音すら耳障りで、ただ無心にアルコールを流し込む。
「……どうしたよ。今日はやけに飲むな」
隣でグラスを拭いていた朔弥が、半眼でこちらを覗いてくる。
答えられずに黙り込む。
だが沈黙が長すぎて、もう隠す意味もなかった。
「……あんなに痛がるなんて、想像してなかった」
言葉が口をついた瞬間、胸の奥がざらりと痛む。
「桜ちゃんのことか」
朔弥の声が低くなった。
俺はただ、無言でグラスの縁を指先でなぞった。
「ローションとか、ちゃんと使ってんのか?」
「もちろんだ」
短く答える。
「……それでも駄目だった」
氷がかすかに揺れる音に重なるように、自分の声も揺れていた。
「……なんか、間違ったことをしてる気分になる。好きだから、幸せにしたいはずなのに……逆に苦しませてるみたいで」
言い切った途端、喉の奥が詰まる。
グラスを強く握りしめてしまう。
「それでも、抱きたいと思う衝動がある自分が……嫌になる」
吐き出した言葉は、酒よりずっと苦かった。
朔弥は黙り込む。いつもの調子で軽口を返すことはなく、真剣な視線をただこちらに向けていた。
やがて、彼が苦く笑う。
「……まぁ、あんなピュアな子に“自分で練習しろ”なんて言えるわけないだろ」
グラスを棚に戻しながら続けた。
「だからこそ、お前が時間かけて導いてやるしかないんだよ。……それが“日向”だろ」
その言葉を聞いても、胸の重さは晴れない。
眉間に皺を寄せたまま、深く息を吐いた。
グラスの中の氷は、もう半分以上溶けていた。
薄まった酒が喉に落ちていくのに、苦さだけは何ひとつ薄まってくれなかった。