大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。

第174話 言葉にされない配慮は、だいたい伝わる

夕方。

朱里は資料を揃えながら、何度目か分からない深呼吸をした。

(……今日、静かすぎる)

午前中のざわつきが嘘みたいに、午後は誰も転勤の話をしなかった。

止んだ、というより──“止められた”感じ。
(美鈴だ)

理由は聞かなくても分かる。

ふと、視線を感じて顔を上げると、嵩がこちらを見ていた。

目が合って、すぐに逸らされる。

(……何か、あった)

確信に近い感覚だった。

嵩の表情が、昨日までと少し違う。

迷いではなく、覚悟に寄っている。

(美鈴、何言ったの)

答えは聞かなくてもいい。

きっと──自分のために、余計なことを言ってくれた。

定時が近づく。

「中谷」

美鈴の声。

「今日、先上がる?」
「私、ちょっと残るから」

珍しい言い方だった。

まるで、席を外すための理由を作っているみたいで。

「……はい」
「じゃあ、お先に失礼します」

立ち上がると、嵩も同じタイミングで鞄を手に取った。

(やっぱり)

エレベーター前。

二人きり。

沈黙が落ちる。

でも、今日は重くなかった。

「……美鈴に、何か言われました?」

朱里が先に口を開いた。

嵩は、一瞬驚いた顔をしてから、小さく笑う。

「……さすがだね」

否定しなかった。

「直接は、聞かなくていいです」
「でも……ちゃんと、伝わってます」

嵩は、しばらく考えてから言った。

「責められたわけじゃない」
「整理された、かな」

その言い方が、もう答えだった。

「……よかった」

朱里は、それだけ言った。

エレベーターが到着する。

中に乗り込んで、並んで立つ。

「朱里」

名前を呼ばれる。

一瞬、心臓が跳ねる。

「今度、ちゃんと話そう」
「急がせない」
「でも、逃げない」

朱里は、ゆっくり頷いた。

「……はい」
「私も、同じです」

エレベーターが降りていく間、

二人の距離は、触れないまま保たれていた。

でも、それがもう──不安じゃなかった。

外に出る。

夕暮れの風が、頬に触れる。

「今日は、ここまででいいですよね」

朱里が言うと、嵩は頷いた。

「うん」
「それでいい」

別れ際。

言葉は少なかった。

でも、胸の奥に残るものは、確かだった。

(美鈴、ありがとう)

直接言われなくても、

守られているのが分かる夜。

朱里は、少しだけ背筋を伸ばして、家路についた。
< 174 / 193 >

この作品をシェア

pagetop