温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛
夜。
美咲が帰宅すると、リビングで書類に目を通していた龍之介が顔を上げた。

「……どうだった?」

 龍之介の問いに、美咲はコートを脱ぎながらソファへ腰を下ろした。
少しの間、沈黙のあとで言葉を紡ぐ。

「彼女は……嘘をついているわ」

 龍之介の眉がぴくりと動く。

「落合さんは、自分から会社の大事な取引先の方を誘うようなことをする人じゃない。
あの人の誠実さを知っていれば、すぐにわかるわ」

美咲はワイングラスに手を伸ばしながら、静かに続けた。
「きっと……松田専務を庇っているのよ」

 黒瀬は深く息を吐き、背もたれに身を預けた。
「……そうか」

「……彼女に対する酷い噂は、俺も耳にしたことがある」
龍之介が低く言った。

 美咲はワイングラスを傾け、静かに頷く。
「目鼻立ちがくっきりしていて華やかだし、出世も早かったから……。男女問わず、やっかみが酷いのよ」

 龍之介はふっと片眉を上げる。
「誰かさんみたいだな」

美咲は小さく笑みを返し、首をかしげる。
「……今は私の話じゃないでしょ」

 軽口の後、ふっと真顔に戻った美咲がグラスをテーブルに置いた。
「でも……顔色が悪かったのよね、彼女。……大丈夫かしら」

 黒瀬は一瞬視線を落とし、低く答えた。
「放ってはおけないな」

 グラスを手に取りながら、彼は続けた。
「真樹にも話しておくよ」

 その声音には、親友としての信頼と、第一秘書としての冷静な判断の両方が込められていた。

「……そうね。お願いします」
そう言って、美咲は夫に向かって丁寧に頭を下げた。

 黒瀬は黙ってその仕草を見つめ、ふっと口元をほころばせる。
「お前に頭を下げられると、逆に落ち着かないな」

 美咲は小さく笑い、再びグラスに口をつけた。
赤いワインが喉を滑り落ちていく。
その穏やかな仕草を見つめながら、龍之介もまた静かにグラスを掲げた。

 二人の間には、落合波瑠を守ろうという暗黙の決意が流れていた。
けれど…この時、二人はまだ気づいていなかった。

 波瑠が抱え込んだ傷が、どれほど深く、孤独なものなのかを。



湯気の立ちこめる浴室で、波瑠は浴槽の縁に両腕を置き、うなだれていた。
肩に落ちる滴が、ぽたりとお湯に広がっていく。

 どうすればいいのか。

 考えても考えても、最善の方法がわからない。
圭吾さんを守りたい。
でも、美咲さんや黒瀬さんにまで迷惑をかけてしまったら……。

 噂を消す術もなく、自分の言葉ひとつで誰かを傷つけるかもしれない。
その恐怖が、胸を締めつけた。

 熱いはずの湯に浸かっているのに、心は冷たく沈んでいく。
波瑠はそっと目を閉じ、小さな声でつぶやいた。

「……どうすれば、よかったんだろう」

湯気の中で目を閉じ、うなだれたまま動けずにいた波瑠。
胸の奥で「どうすればいいのか」と繰り返しても答えは見つからず、心は沈むばかりだった。

 ふいに、洗面台に置いたスマートフォンが震えた。
静かな浴室に、着信音がかすかに響く。

 慌ててタオルで手を拭き取り、画面を覗き込む。
そこには「松田圭吾」の文字。

 波瑠、今日はどうしてる?
 ちゃんと食べたか?

 短いメッセージなのに、胸の奥が一気に熱くなる。
視界がにじみ、思わずスマホを胸に抱きしめた。

(……圭吾さん……)

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