温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛
波瑠はスマホを胸に抱きしめたまま、しばらく動けなかった。
本当は「辛い」と言いたい。泣きたい。
でも…心配かけてはいけない。

 深呼吸をして指先を動かす。

 大丈夫です。ちゃんと食べました。心配しないでください。

 短く、簡潔に。
けれど、画面を見つめる波瑠の指は小さく震えていた。

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「……嘘じゃない、嘘じゃない……」
自分に言い聞かせながらも、瞳の奥に涙が滲んでいた。

 送信して間もなく、スマホが震えた。
すぐに画面をのぞき込むと、圭吾からの返信が表示されている。

 波瑠に会いたい。
しかし、明日からヨーロッパへ出張だ。二週間の予定だ。
帰ってきたら、会いたい。

 たった数行の文字に、胸が熱くなる。
(……会いたい、って……)
その言葉だけで心が震えた。

 けれど次の瞬間、「二週間」という現実がのしかかる。

波瑠はスマホを握りしめたまま、しばらく迷っていた。
会いたい気持ちをどう伝えればいいのか……心が揺れる。
けれど、圭吾に伝えたい言葉はただひとつだった。

 気をつけてください。

 指先で打ち込み、送信ボタンを押す。
画面に文字が消えていくと同時に、胸の奥で小さな痛みが広がった。

「……どうか無事に帰ってきて」

 声に出したその願いは、寂しさと祈りをひそやかに含んでいた。

 送信を終えたあと、波瑠は画面を見つめたまま、ふと小さく笑った。
「……これじゃ、あんまり素っ気ないかな」

 迷った末に、スタンプを開く。
選んだのは…小さなパンダが元気に手を振っているスタンプ。

 指先でタップし、送信。
画面にパンダが表示されると、張りつめていた胸の奥がほんの少しだけほぐれていった。



会社のビルのエントランスへ入ったときのことだった。
受付の前で、二人の女性社員が顔を寄せ合い、ひそひそと囁いている。

「ねえ、あの人でしょう? 例のうわさの」
「すごいわよね、40代で玉の輿狙いかあ。私だったらできない」

 聞こえないふりをした。
けれど、耳は勝手にその声を拾ってしまう。胸の奥に冷たい痛みが走った。

 その瞬間、後ろから落ち着いたヒールの音が近づいてきた。

「……おはよう、落合さん」

 振り返ると、美咲がまっすぐに立っていた。
視線を受付の女性たちに一瞬だけ向ける。その静かな眼差しに、二人は慌てて口を閉ざし、姿勢を正した。

美咲は何事もなかったように波瑠の隣へ並び、自然な仕草でエレベーターへ促す。
「行きましょう」

 ただそれだけの言葉なのに、波瑠の胸の奥に広がっていた冷えが、ほんの少し和らいだ。


社長室。
窓の外に沈む午後の陽が、重厚なデスクを照らしていた。

 黒瀬龍之介はドアをノックし、静かに入室する。
「……少し、お時間よろしいですか」

 真樹が顔を上げ、ペンを置いた。
「何だ」

 龍之介はドアを閉め、デスクの前に立つ。
「落合波瑠さんの件で……社内に好ましくない噂が流れています」

「根拠のないことを流され、女性としての名誉を貶められている。
業務に支障が出るほどの悪質さです。…これはハラスメントにあたる」

 真樹の目が細く光る。
「……ハラスメント」

「はい。セクシャルなニュアンスを含んだ噂を広め、周囲にまで広がっている。
放置すれば、落合本人だけでなく会社の責任も問われかねない」

 真樹は拳を握りしめ、机を軽く叩いた。
「……放っておくわけにはいかないな」
真樹はデスクの上で組んだ手をゆっくりとほどいた。
「……人事部やコンプライアンス部門が介入すべきレベルの事案だな」

 龍之介が頷く。
「ええ。社内の対処だけでは限界があります。社外の目を入れたほうが、抑止力にもなる」

 真樹の目に鋭い光が宿った。
「企業弁護士に託そう。正式に調査させる。…会社の信用を守るためにも、そして……社員を守るためにもな」

経営者としての冷徹な判断。
だがそこには、社長として自らの会社で働く者を守ろうとする確かな責任が込められていた。
< 32 / 85 >

この作品をシェア

pagetop