温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛
圭吾は一呼吸置き、静かに言葉を紡いだ。
「波瑠さんは、お父様っ子だったと伺っています。……どこか、お父様との楽しい思い出の場所を、覚えていらっしゃいませんか?」
「思い出の場所……?」
由紀子はカップをそっとテーブルに置き、しばらく遠くを見つめるように黙り込んだ。
やがて、懐かしさをにじませた声が落ちる。
「……亡くなった夫は漁師でしたので、あまり休暇というものがありませんでした。けれど、毎年の夏休みだけは——山口県の周防大島町に行っていたんです。『花月』という旅館に、いつも泊まっていました」
由紀子の表情は、過ぎ去った日々を慈しむようにやわらかくほどけていた。
その言葉を耳にした瞬間、圭吾の中で稲妻のように確信が走った。
——波瑠は、そこにいる。
「……周防大島町、花月……」
由紀子の言葉を、圭吾は心の奥に深く刻み込んだ。
「亡き夫は、年に一度の贅沢だといって、毎年あの旅行には奮発してくれていたんです。私と波瑠は、それをいつも心待ちにしていました。波瑠は花月の娘さんと同じ年で、今でも年賀状のやり取りをしているそうです。私たち三人にとって、あの場所にはたくさんの楽しい思い出が詰まっているんですよ」
由紀子は遠い記憶を辿るように、懐かしげに微笑んだ。
圭吾はゆるやかにうなずき、静かに言葉を返した。
「……貴重なお話を、ありがとうございます」
それ以上は追及せず、ただ礼を述べる。
由紀子の心情を思えば、これ以上問い詰めることはできなかった。
だが圭吾の胸の内には、確かなものが芽生えていた。
——波瑠は、必ずそこにいる。
彼女を見つけ出し、そして何よりも先に謝るのだ。
由紀子の視線を受け止めながらも、圭吾は己の決意を胸の奥で固く噛みしめていた。
由紀子はしばらく黙っていた。
やがて、テーブルの上で組んでいた手をゆっくりと解き、圭吾をまっすぐに見つめる。
「……松田さん。あなたのような多忙な方が、わざわざ波瑠のことでここまでいらしたというのは……それほどの覚悟をお持ちだと、お察ししてよろしいのでしょうか?」
圭吾は背筋を伸ばし、揺るぎない声で答えた。
「はい。私は波瑠さんに、結婚を申し込みます」
その断言に、由紀子の眉がかすかに震える。
「波瑠は……普通の家庭で育ちました。父親は娘に不自由のない生活をさせ、東京の大学まで通わせました。……けれど、松田さんのような方に見合うのかどうか」
ためらいがちに言う声には、母としての慎ましさと不安が滲んでいた。
圭吾はゆっくりとうなずき、視線を逸らさずに続けた。
「以前お話しした通り、私は一度結婚しています。ですが、それは恋愛ではありませんでした。周囲に勧められるまま結婚し、子どもにも恵まれ、それなりの幸せはありました。……しかし、そこに男女としての愛はなかった」
彼は一呼吸置き、あえて言葉を強めた。
「波瑠さんに出会って、私は初めて……自分を偽らずに生きられると感じたんです。私の肩書きにひるむこともなく、真正面から挑んでくる彼女の前で、私はありのままの自分でいられた。それがどれほどの安らぎを与えてくれたか……」
圭吾はあえて、彼女の名を呼び捨てにした。
「波瑠のいないこれからの人生なんて……考えられないんです」
柔らかな声に、圭吾の背筋が自然と伸びる。
由紀子は静かに口を開いた。
「そうですか……松田さん。あの子の父親の口癖が『足るを知る』というものでした。そのせいか、娘はしっかり者に育った半面、受け取り下手なところがあるように思えます。欲しいと、はっきり言えず、いつも自分を後回しにしてしまうんです」
圭吾はわずかに微笑んだ。
「知っていますよ」
その声は柔らかく、だが揺るぎない確信を帯びていた。
「彼女が人のために自分を抑えるところも、無理をして笑ってしまうところも……全部。だからこそ、私が支えたいんです」
由紀子の瞳が潤む。
長い沈黙ののち、彼女はゆっくりと頭を下げた。
「どうか——娘を、お願いします」
その言葉は、母親としての願いであり、祈りにも似ていた。
由紀子の瞳に、わずかに光る涙が浮かんでいるのを見て、圭吾の胸に熱いものが込み上げる。
「……必ず。波瑠を幸せにします」
低く、しかし確かな声で答えた。
——もう迷わない。
たとえどんな過去があろうとも、波瑠を探し出し、正面から向き合う。
圭吾はその誓いを胸に刻み込みながら、静かに由紀子に頭を下げた。
「波瑠さんは、お父様っ子だったと伺っています。……どこか、お父様との楽しい思い出の場所を、覚えていらっしゃいませんか?」
「思い出の場所……?」
由紀子はカップをそっとテーブルに置き、しばらく遠くを見つめるように黙り込んだ。
やがて、懐かしさをにじませた声が落ちる。
「……亡くなった夫は漁師でしたので、あまり休暇というものがありませんでした。けれど、毎年の夏休みだけは——山口県の周防大島町に行っていたんです。『花月』という旅館に、いつも泊まっていました」
由紀子の表情は、過ぎ去った日々を慈しむようにやわらかくほどけていた。
その言葉を耳にした瞬間、圭吾の中で稲妻のように確信が走った。
——波瑠は、そこにいる。
「……周防大島町、花月……」
由紀子の言葉を、圭吾は心の奥に深く刻み込んだ。
「亡き夫は、年に一度の贅沢だといって、毎年あの旅行には奮発してくれていたんです。私と波瑠は、それをいつも心待ちにしていました。波瑠は花月の娘さんと同じ年で、今でも年賀状のやり取りをしているそうです。私たち三人にとって、あの場所にはたくさんの楽しい思い出が詰まっているんですよ」
由紀子は遠い記憶を辿るように、懐かしげに微笑んだ。
圭吾はゆるやかにうなずき、静かに言葉を返した。
「……貴重なお話を、ありがとうございます」
それ以上は追及せず、ただ礼を述べる。
由紀子の心情を思えば、これ以上問い詰めることはできなかった。
だが圭吾の胸の内には、確かなものが芽生えていた。
——波瑠は、必ずそこにいる。
彼女を見つけ出し、そして何よりも先に謝るのだ。
由紀子の視線を受け止めながらも、圭吾は己の決意を胸の奥で固く噛みしめていた。
由紀子はしばらく黙っていた。
やがて、テーブルの上で組んでいた手をゆっくりと解き、圭吾をまっすぐに見つめる。
「……松田さん。あなたのような多忙な方が、わざわざ波瑠のことでここまでいらしたというのは……それほどの覚悟をお持ちだと、お察ししてよろしいのでしょうか?」
圭吾は背筋を伸ばし、揺るぎない声で答えた。
「はい。私は波瑠さんに、結婚を申し込みます」
その断言に、由紀子の眉がかすかに震える。
「波瑠は……普通の家庭で育ちました。父親は娘に不自由のない生活をさせ、東京の大学まで通わせました。……けれど、松田さんのような方に見合うのかどうか」
ためらいがちに言う声には、母としての慎ましさと不安が滲んでいた。
圭吾はゆっくりとうなずき、視線を逸らさずに続けた。
「以前お話しした通り、私は一度結婚しています。ですが、それは恋愛ではありませんでした。周囲に勧められるまま結婚し、子どもにも恵まれ、それなりの幸せはありました。……しかし、そこに男女としての愛はなかった」
彼は一呼吸置き、あえて言葉を強めた。
「波瑠さんに出会って、私は初めて……自分を偽らずに生きられると感じたんです。私の肩書きにひるむこともなく、真正面から挑んでくる彼女の前で、私はありのままの自分でいられた。それがどれほどの安らぎを与えてくれたか……」
圭吾はあえて、彼女の名を呼び捨てにした。
「波瑠のいないこれからの人生なんて……考えられないんです」
柔らかな声に、圭吾の背筋が自然と伸びる。
由紀子は静かに口を開いた。
「そうですか……松田さん。あの子の父親の口癖が『足るを知る』というものでした。そのせいか、娘はしっかり者に育った半面、受け取り下手なところがあるように思えます。欲しいと、はっきり言えず、いつも自分を後回しにしてしまうんです」
圭吾はわずかに微笑んだ。
「知っていますよ」
その声は柔らかく、だが揺るぎない確信を帯びていた。
「彼女が人のために自分を抑えるところも、無理をして笑ってしまうところも……全部。だからこそ、私が支えたいんです」
由紀子の瞳が潤む。
長い沈黙ののち、彼女はゆっくりと頭を下げた。
「どうか——娘を、お願いします」
その言葉は、母親としての願いであり、祈りにも似ていた。
由紀子の瞳に、わずかに光る涙が浮かんでいるのを見て、圭吾の胸に熱いものが込み上げる。
「……必ず。波瑠を幸せにします」
低く、しかし確かな声で答えた。
——もう迷わない。
たとえどんな過去があろうとも、波瑠を探し出し、正面から向き合う。
圭吾はその誓いを胸に刻み込みながら、静かに由紀子に頭を下げた。