温厚専務の秘密 甘く強引な溺愛

薄曇りの朝。
波瑠は引き戸を開け放ち、瀬戸内の潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

暮らしているのは、旅館「花月」の旧館にある離れ。
広々としたその部屋は、かつて父母とともに滞在した思い出の場所でもあった。
年月を経て使い古されたキッチンには小さな傷や欠けが残っていたが、それすらも懐かしい記憶と重なり、波瑠の心を落ち着けてくれた。

「……恵美ちゃんには、本当に感謝しなくちゃ」
女将の恵美ちゃんが「しばらくゆっくりしたら」と心遣いで貸してくれたのだ。

やかんに火をかけ、茶碗に緑茶を注ぐ。
ちゃぶ台に腰を下ろすと、広い空間に自分ひとりの気配だけが漂う。
都会では決して得られなかった静けさが、波瑠の胸を満たしていった。

生活は質素だが、観光案内所でのアルバイトが日々の張り合いになっている。
一日四時間、週に三日の勤務。
観光客に地図を渡し、名所を案内するだけの仕事だが、島の人々と触れ合えるその時間が、波瑠にとっては小さな救いだった。

けれど夜になると、どうしても思い出してしまう。
——圭吾の低い声。
——誕生日を祝ってくれた夜の温もり。

「……忘れなくちゃ」
そう自分に言い聞かせるように、窓の外を見やれば、瀬戸内の海が淡く光を返していた。

その穏やかな景色の裏で、彼女の新しい生活に、再び波が押し寄せようとしていることを——波瑠はまだ知らない。



ちょうどそのとき、戸口から声がした。
「波瑠ちゃん、いる?」

引き戸を開けると、恵美ちゃんが大きな包みを抱えて立っていた。
「今日は市場で新鮮な魚をもらったの。一人じゃ食べきれないから、一緒に食べようと思って」

波瑠は思わず笑みを浮かべる。
「……ありがとう。でも、いいの?」

「もちろん。たまには賑やかに食べたほうがいいでしょ?」
そう言って、恵美ちゃんは軽やかに笑った。

「旅館の一角に私の自宅があるの。そっちで一緒にご飯にしましょう。離れに一人きりじゃ、味気ないでしょ?」

波瑠の胸に、ふっと温かなものが広がった。

こうして手を差し伸べてくれる存在がいることが、何より心強かった。

「……お邪魔します」
軽く頭を下げ、波瑠は恵美ちゃんの後ろ姿を追った。

暮れゆく瀬戸内の空を背景に、二人の影が並んで伸びていた。

恵美の自宅は、旅館の一角に建てられた木造の平屋だった。
座卓に並べられた料理からは、煮魚の香りや柑橘の爽やかな匂いが漂う。
二人で手を合わせ、「いただきます」と声を揃えた。

ひと口食べた波瑠は、ふと周囲を見渡して微笑む。
「……恵美ちゃん、本当にすごいと思う。私が父と母と来ていた頃は、花月って“由緒ある高級旅館”っていう印象だった。でも、今は町一番のリゾートになってるんだもの」

恵美は箸を動かしながら、少し照れたように笑った。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。時代に合わせるのは大変だったけれど、ありがたいことに、いまは海外からの要人まで泊まりに来てくださるの」

「へえ……やっぱり、恵美ちゃんの経営手腕ね」
波瑠が感心したように言うと、恵美は首を横に振った。

「私だけじゃないの。弟夫婦が本当に優秀でね。弟は裏方をしっかり支えてくれるし、義妹は接客のセンスが抜群なの。二人がいなかったら、今の花月はなかったわ」

その言葉には誇らしさと、家族への深い信頼がにじんでいた。
波瑠はお茶をすすりながら、目を細める。
「……いいなぁ。みんなで力を合わせて守ってきたんだね」

恵美は波瑠を見つめ、柔らかく笑った。
「……そうね。私は幸せだわ」

恵美は茶碗を置き、ふと思い出したように声を潜めた。
「ねえ、波瑠ちゃんって……滝沢ホールディングスに勤めていたのよね?」

「うん」
波瑠がうなずくと、恵美の顔にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「実はね、まだ内緒の話なんだけど……うちに業務提携の話が来ているの」

「えっ……!」
波瑠の目が大きく見開かれた。
「滝沢ホールディングスと?」

「ええ。もちろん正式に決まったわけじゃないけど、担当者が視察に来る予定なの。こういう町の旅館にまで声がかかるなんて、本当に時代が変わったものね」

波瑠は茶碗を手にしたまま、言葉を失った。
——こんな瀬戸内の小さな島で。
もう縁を切ったと思っていた会社の名を、こんな形で耳にするなんて。

胸の奥で、忘れかけていた日々と、まだ生々しい記憶が複雑に絡み合う。
「……こんな離れた場所にいても、やめた会社の影響力を思い知らされるなんて」

恵美は首をかしげながらも、優しく笑った。
「縁って、不思議なものよね」

波瑠は黙ってうなずいた。
その「縁」が、やがて自分の人生を大きく動かすことになるとは、このときまだ気づいていなかった。

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