籠姫と寡黙な皇帝と、転生皇后

第三章 月下の小演奏会

 翌日の夕刻、宮廷は月の園に向けて静かにざわめいていた。
 小演奏会――籠姫エルミナが催す、月光の下での音楽の宴。表向きは雅な催しだが、私にはもう一つの意味があった。
 「皇后は音楽に疎い」という噂を、宮廷全体に広めるための舞台――。
 その意図はわかっている。それでも、退く気はなかった。



 「皇后陛下、準備はお済みでしょうか」
 侍女ティナが慎重に髪飾りを直しながら問いかける。
 私は小さく頷き、胸元に忍ばせた黒い箱を確かめた。
 ――皇帝カリスから託された“共鳴石”。
 手の中でほんのり温かいそれは、不思議と心を落ち着かせてくれる。

 「歌は……まだ上手とは言えませんけど」
 「練習の成果は必ず出ます」
 ティナは真剣な目で言い切った。
 彼女の励ましが、私の背中を押す。



 月の園は、昼の表情とはまるで違っていた。
 藤棚には無数の小灯りが下がり、泉は月を映して青白く輝く。噴水の音が静けさを刻み、その周囲に円卓と椅子が並べられている。
 貴族たちが笑顔で談笑する中、中央には小さな演奏台。今日はその上で歌や楽器が披露されるのだ。

 「まあ、皇后陛下もお越しくださいましたのね」
 白百合のドレスを纏った籠姫エルミナが、私の前に現れた。
 「お招き、感謝します」
 「ふふ。陛下の隣に座る前に、ぜひ皆様の前で歌を――」
 その声は甘く、しかし刃を忍ばせている。
 「……歌を?」
 「ええ。宮廷の者たちに、皇后陛下のお声を聞かせて差し上げたいのです」
 私の答えを待たず、周囲の視線が集まった。



 最初に演奏台に立ったのは、宮廷歌手のレア。
 透き通るようなソプラノが、夜空を滑っていく。
 その完成された歌声に、拍手とため息が重なった。
 次は、貴族の令息による竪琴の演奏。穏やかな旋律が泉の水面を震わせる。

 「次は……皇后陛下を」
 エルミナの声に促され、私はゆっくりと台へ上がった。
 足元に月明かりが集まり、背筋を正す。
 掌の中の共鳴石が、温もりを増した。

 「本日は、僭越ながら……短い歌を」
 息を吸い、静かに音を紡ぐ。
 前世で何度も聴いた、シンプルな子守唄。
 最初の音が、共鳴石を通して柔らかく広がっていく。
 歌詞はこの国の言葉に置き換えた。意味は――「眠れ、風の子よ」。
 短い旋律が、夜風と共に人々の耳に届く。

 沈黙。
 そして、ゆっくりと拍手が広がった。驚きの色が混ざったその拍手に、私はほんの少しだけ微笑む。
 台を降りようとしたとき――

 「まあ、可愛らしい歌ですこと」
 エルミナが歩み寄る。
 「けれど、宮廷の舞台には少し……素朴すぎやしません?」
 笑顔に潜む刺。私は視線を逸らさず、静かに答えた。
 「素朴でも、届けば十分です」
 彼女の眉が一瞬だけ動く。



 演奏会の後半、皇帝カリスが姿を現した。
 金の瞳が人々を一望し、まっすぐこちらへ歩み寄る。
 「遅れてすまない」
 「お疲れ様でございます、陛下」
 エルミナが柔らかく微笑み、私の前に立とうとするが――
 「……皇后」
 その一言で、彼の視線は私に固定された。

 「歌を聞いた」
 「……恐縮です」
 「悪くなかった」
 短く、しかし確かに褒め言葉だった。
 エルミナの笑顔がわずかに引きつる。



 その夜、部屋に戻るとティナが小声で言った。
 「皇后陛下、籠姫様の表情……初めて見ました。あんなに……」
 「苛立っていた?」
 「ええ。きっとまた仕掛けてきます」
 「構わないわ。次も受けて立つ」
 窓の外、夜風がすみれの花を揺らす。
 胸の中の火は、ますます強くなっていた。
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