籠姫と寡黙な皇帝と、転生皇后
第四章 皇帝と二人きり
月下の小演奏会から数日後。
宮廷の空気は少しだけ変わっていた。私が歌った夜をきっかけに、貴族たちの中に「皇后は思ったよりも芯が強い」という声が小さく広がったらしい。
その噂は、良くも悪くも籠姫エルミナの耳にも届いているはずだった。
だが、その日――思いがけない呼び出しがあった。
「皇后陛下、陛下が執務室へお越しになるようにと」
文官の声は淡々としていたが、胸の奥が急にざわめく。
陛下自ら、私を?
重い扉を開けると、窓辺に立つカリス陛下の姿があった。
高い窓からは夕暮れの光が差し込み、彼の漆黒の髪に淡い金色を落としている。
「……来たか」
振り返った金の瞳が、まっすぐ私を射抜いた。
「お呼びでしょうか」
「……これを」
差し出されたのは、一冊の分厚い本だった。
「……これは?」
「この国の歴代皇后が残した記録だ。宮廷での立ち回りや、行事の手順が記されている。そなたに渡すのが遅れた」
私は本を受け取り、表紙に指先をなぞった。深い緋色の革に金の細工が施され、長い年月の重みが感じられる。
「ありがとうございます。……とても、助かります」
彼は少しだけ視線を落とし、机の上の茶器に手を伸ばした。
「……座れ。茶を淹れる」
驚きに思わず目を瞬かせる。
「陛下が……?」
「そなたの歌を聞いた礼だ。短いが、悪くない時間だった」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
香ばしい茶の香りが立ちのぼる。
「……どうぞ」
差し出された茶碗を受け取り、口に含む。温かさと、わずかな渋みが広がった。
「おいしいです」
「そなたは甘いものが好きだが、茶は苦めがいいだろう」
「……覚えてくださっていたんですね」
ふと漏らした言葉に、彼は一瞬だけ眉を動かした。
しばし、静かな時間が流れる。
執務室の壁には古い地図と剣が飾られ、外では衛兵の交代の足音が響く。
「……籠姫について、何かされたか」
突然の問いに、心臓が跳ねた。
「いいえ。小演奏会では、ただ歌わせていただいただけです」
「そうか」
陛下は机の端に腰を預け、低い声を落とす。
「エルミナは幼い頃から余の傍にいた。だが……彼女は、自分がこの宮廷で特別だと信じている」
「それは、事実ではないのですか?」
「……特別ではある。だが、唯一ではない」
その金の瞳が、まるで試すように私を見た。
「そなたがこの宮廷で孤立しないよう、余も動く」
「……陛下……」
言葉が喉に詰まりそうになる。
前世で読んだ物語の皇帝は、皇后を守らなかったはずだ。
けれど今、目の前の彼は――。
「夜の庭を、歩くか」
予想もしなかった誘いに、私はわずかに戸惑った。
「よろしいのですか?」
「今夜は涼しい。……そなたと話したい」
外に出ると、月明かりが中庭を照らしていた。白い石畳に影が落ち、風が花々を揺らす。
「すみれか」
彼が立ち止まり、小さな紫の花を指先でなぞる。
「強い風にも負けない。――そなたに似ている」
胸が締め付けられる。
「……ありがとうございます」
沈黙が、決して重くない時間だった。
やがて執務室に戻ると、彼は机に置いていた小さな箱を手にした。
「これは?」
「余が使っていた封蝋だ。皇帝と皇后が共に署名する文書に押す印。……そなたに渡しておく」
それは、形だけではない“伴侶”としての証だった。
「……必ず、大切にします」
私がそう言うと、カリスはわずかに目を細めた。
「それでいい。――そなたは、余の皇后だから」
その一言が、心の奥深くまで響いた。
部屋に戻った私は、胸の奥の鼓動がなかなか収まらないのを感じながら、封蝋を掌で包み込んだ。
籠姫の影はまだ消えていない。むしろ、これからが本当の試練だろう。
けれど――今夜、彼がくれた言葉と時間は、私にとって何よりの力になる。
窓の外、月は静かに輝き続けていた。
次に訪れる嵐を、私はもう恐れない。
宮廷の空気は少しだけ変わっていた。私が歌った夜をきっかけに、貴族たちの中に「皇后は思ったよりも芯が強い」という声が小さく広がったらしい。
その噂は、良くも悪くも籠姫エルミナの耳にも届いているはずだった。
だが、その日――思いがけない呼び出しがあった。
「皇后陛下、陛下が執務室へお越しになるようにと」
文官の声は淡々としていたが、胸の奥が急にざわめく。
陛下自ら、私を?
重い扉を開けると、窓辺に立つカリス陛下の姿があった。
高い窓からは夕暮れの光が差し込み、彼の漆黒の髪に淡い金色を落としている。
「……来たか」
振り返った金の瞳が、まっすぐ私を射抜いた。
「お呼びでしょうか」
「……これを」
差し出されたのは、一冊の分厚い本だった。
「……これは?」
「この国の歴代皇后が残した記録だ。宮廷での立ち回りや、行事の手順が記されている。そなたに渡すのが遅れた」
私は本を受け取り、表紙に指先をなぞった。深い緋色の革に金の細工が施され、長い年月の重みが感じられる。
「ありがとうございます。……とても、助かります」
彼は少しだけ視線を落とし、机の上の茶器に手を伸ばした。
「……座れ。茶を淹れる」
驚きに思わず目を瞬かせる。
「陛下が……?」
「そなたの歌を聞いた礼だ。短いが、悪くない時間だった」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
香ばしい茶の香りが立ちのぼる。
「……どうぞ」
差し出された茶碗を受け取り、口に含む。温かさと、わずかな渋みが広がった。
「おいしいです」
「そなたは甘いものが好きだが、茶は苦めがいいだろう」
「……覚えてくださっていたんですね」
ふと漏らした言葉に、彼は一瞬だけ眉を動かした。
しばし、静かな時間が流れる。
執務室の壁には古い地図と剣が飾られ、外では衛兵の交代の足音が響く。
「……籠姫について、何かされたか」
突然の問いに、心臓が跳ねた。
「いいえ。小演奏会では、ただ歌わせていただいただけです」
「そうか」
陛下は机の端に腰を預け、低い声を落とす。
「エルミナは幼い頃から余の傍にいた。だが……彼女は、自分がこの宮廷で特別だと信じている」
「それは、事実ではないのですか?」
「……特別ではある。だが、唯一ではない」
その金の瞳が、まるで試すように私を見た。
「そなたがこの宮廷で孤立しないよう、余も動く」
「……陛下……」
言葉が喉に詰まりそうになる。
前世で読んだ物語の皇帝は、皇后を守らなかったはずだ。
けれど今、目の前の彼は――。
「夜の庭を、歩くか」
予想もしなかった誘いに、私はわずかに戸惑った。
「よろしいのですか?」
「今夜は涼しい。……そなたと話したい」
外に出ると、月明かりが中庭を照らしていた。白い石畳に影が落ち、風が花々を揺らす。
「すみれか」
彼が立ち止まり、小さな紫の花を指先でなぞる。
「強い風にも負けない。――そなたに似ている」
胸が締め付けられる。
「……ありがとうございます」
沈黙が、決して重くない時間だった。
やがて執務室に戻ると、彼は机に置いていた小さな箱を手にした。
「これは?」
「余が使っていた封蝋だ。皇帝と皇后が共に署名する文書に押す印。……そなたに渡しておく」
それは、形だけではない“伴侶”としての証だった。
「……必ず、大切にします」
私がそう言うと、カリスはわずかに目を細めた。
「それでいい。――そなたは、余の皇后だから」
その一言が、心の奥深くまで響いた。
部屋に戻った私は、胸の奥の鼓動がなかなか収まらないのを感じながら、封蝋を掌で包み込んだ。
籠姫の影はまだ消えていない。むしろ、これからが本当の試練だろう。
けれど――今夜、彼がくれた言葉と時間は、私にとって何よりの力になる。
窓の外、月は静かに輝き続けていた。
次に訪れる嵐を、私はもう恐れない。