籠姫と寡黙な皇帝と、転生皇后
第九章 新しい日々
籠姫が宮廷を去り、陛下が私に誓いの指輪をはめてくださってから、初めての朝。
部屋の窓から差し込む陽光はやわらかく、どこか匂い立つような温もりがあった。
寝台の横に置かれた小さな花瓶には、昨夜陛下が庭から摘んでくれたすみれが一輪。
その紫色を眺めるだけで、胸の奥がゆるやかに満たされていく。
「皇后陛下、お目覚めでしょうか」
扉の外から、侍女ティナの声がした。
「ええ、今起きたところ」
支度を整えて大広間へ向かうと、そこには珍しく朝から座している陛下の姿があった。
「おはようございます、陛下」
「……うむ。座れ」
彼は私の椅子を引き、自然に手を差し出す。そのさりげない仕草が、以前よりずっと近い距離を感じさせた。
「今朝は、そなたの好きな甘い果実を用意させた」
銀皿に盛られた熟れた果実が、朝の光を浴びて輝いている。
「ありがとうございます。……あの、陛下がこうして朝食をご一緒くださるのは珍しいですね」
「政務は後回しだ。たまには、な」
その口調は淡々としているのに、金の瞳にはかすかな柔らかさが宿っていた。
食事を終えると、陛下は庭へ出ようと私を誘った。
春の花々が咲き始めた中庭には、昨日よりも多くのすみれが顔を覗かせている。
「……あれは温室で育てたものだ。そなたが気に入ったと聞いて、数を増やした」
「まあ……こんなに」
小さな紫の花畑に、思わず足を踏み入れる。
陛下は私の後ろから、指輪をはめた左手をそっと握った。
「これからも、共に季節を見よう」
その低い声が、春の空気の中で不思議と鮮やかに響く。
宮廷の人々の視線も、以前のような刺々しさはなくなっていた。
廊下ですれ違う文官が、軽く会釈をしてくれる。侍女たちの表情にも、緊張より安堵の色が増えた。
籠姫が残していった影は完全には消えていないが、確かに少しずつ、変わっている。
夕暮れ時、私は政務を終えた陛下と執務室で向かい合った。
「今日一日、どうだった?」
「……穏やかでした。こんなに心安らぐ一日が来るなんて、思っていませんでした」
「それが、これからの日常になる」
そう言って、彼は私の手を取り、指輪の宝石に口づけた。
夜、部屋の窓から庭を見下ろすと、月明かりの中ですみれが揺れていた。
あの日から、私の世界は確かに変わった。
この人と共に歩む日々は、まだ始まったばかり。
けれど私はもう、孤独でも、怯えてもいなかった。
「……おやすみなさい、陛下」
小さく呟き、そっと目を閉じる。
新しい日々が、静かに、そして確かに続いていく――。
