下町育ちのお針子は竜の王に愛される〜戴冠式と光の刺繍〜
雲海が途切れた先、ルブゼスタン・ヴォルシスの王宮が小さく見えた。竜はそこへは向かわず、ゆるやかに軌道を逸らし、薄闇の中に静かに佇む、離れの塔へと進路を変える。高度が徐々に下がっていく。塔の屋上へと着地する気配を感じ、ニコラは衝撃に備えた。
しかし、ニコラの予想に反して、竜は風一つ立てず、静かに降り立つ。竜はニコラが降りやすいようにそっと伏せた。
地面に足をつけたニコラが顔を上げると、すぐ目の前に、自分の頭ほどもある金色の瞳があった。黒曜石の鱗の奥に光るその目と、至近距離で見つめ合う。もう一度だけ、あの温かな鱗の感触を確かめたくて、ニコラはそっと手を伸ばした。
「ユーリ!」
屋上にアベルが現れた。この塔まで全力で駆けてきたのだろう。いつもは冷静な彼の肩が荒く上下している。
『アベル、すまない』
「一体何があったんですか?」
『アベル、私のことはいいから、ニコラを……』
言葉の続きを口にできぬまま、ユリシーズの喉から低く深い唸り声が漏れた。抑えがたい苦痛が滲むような声音だった。
「ユリシーズ殿下!?」
慌てて駆け寄ろうとしたニコラに、アベルが腕を伸ばしてそれを制止した。
「下がりなさい。ユリシーズ殿下は今から人の姿に戻るのです」
「え……?」
「一度、ハルヴァの能力を解き放ち、竜の姿になると、人の姿に戻るのに一晩かかります。その過程には、壮絶な苦しみを伴います。鱗は一枚ずつ剥がれ、骨がきしみ、内臓さえも押し潰される……それを、意識を保ったまま耐え抜かなければならないのです」
「そんな……!」
ニコラはただ立ち尽くすことしかできなかった。想像もできないような激痛に、彼はこれから一人で耐えなければならないのだ。目頭が熱くなった。
「話は後で聞きますから、貴方はここからすぐに立ち去ってください」
動けずにいるニコラに、アベルはさらに言葉を重ねた。
「心配しなくても人の姿にちゃんと戻ります。さあ、行ってください」
いつもより優しい口調だった。きっと、私が今にも泣きそうな顔をしているからだ。
アベルに言われた通り、この場を離れようと一歩を踏み出したニコラの背に、優しく語りかけるような声が届いた。
『……ニコラ、無事で良かった』
その瞬間、胸の奥からせき止めていた感情が溢れ出す。ニコラは振り返ると、走って竜の姿のユリシーズの首元に抱きついた。我慢していた涙が零れ落ちた。
「ユリシーズ殿下……私を、火の中から助けてくれて、ありがとう」
竜の金色の瞳が静かに細められた。
『……私が、怖くないのか?』
ニコラは首を横に振る。
「怖くなんて、ありません。最初から、ずっと。ただ……そう、綺麗で、びっくりしただけなんです」
囁くように言ったあと、ニコラの膝から力が抜ける。張りつめていた糸が切れたように、その場に倒れ込んだ。アベルが慌てて駆け寄り、彼女の様子を確かめる。気を失っているだけと知り、そっと胸を撫で下ろした。
突然、ユリシーズの体が再び光に包まれる。
その光は柔らかく、穏やかな輝きを放っていた。
金色の粒子がふわりと舞い上がり、やがて溶けるように夜の闇へと消えていく。
その光がすべて消えたとき、そこに立っていたのは、人の姿に戻ったユリシーズだった。
「これは、一体……?」
竜の姿からすぐに人の姿に戻ることなど、過去に一度だってなかった。信じがたい光景に、アベルは思わず息を呑む。
だが、それ以上に驚いていたのは、他でもないユリシーズ本人だった。
彼は、そっと自分の手を見つめる。
鋭い鉤爪は消え、鱗も残っていない。
そこにあるのは、ただの人間の手。
覚悟していた、身を裂くような苦痛もなかった。
それなのに、戻れている。
彼は手を高く掲げた。
指の間から漏れる月の光が眩しかった。