教科書に笑う顔
第3話 笑いは私だけ
朝。学校の玄関で上ばきを履く。
一時間目、国語。
田中先生の声。「五十五ページ、開けて」
私はページをめくる。紙が指に吸いつく。
その瞬間、頭の中がふわっと揺れた。空気が軽くなって、背中がぞっとする。
黒板の字はふつうに読める。先生の机のあたりは消毒液のにおいが強く、窓の枠のほこりだけが糸みたいに光った。
「換気してる?」と美優。
私はうなずく。なのに、ページの白いところだけが明るい。
教科書を見ると「四十八」ページに戻っている。旅の女の人がこちらを見る。
そのとき、紙の下から「ねえ」と短い息が出た。
胸がドクッとする。私は美優の袖をつつく。
「今の、聞こえた?」
「聞こえないよ、明美。どうしたの」
私は何も言わず、本を閉じた。音は止む。指先が冷たい。
◇
昼休み。教室は半分くらい空いている。窓からの風は弱い。
私は席に戻り、同じページをそっと開く。
こめかみがキュッと痛んだ。視界の端が一瞬ぼやけたが、すぐ戻る。
ふと、窓ガラスの反射に目がいった。
反射の中で、あの女の人の口元が一瞬だけ浮かび上がった。
視線を紙に戻す。
挿絵の女の人の手が、動いて手招きをしている。「おいで」と呼んでるように。
ほんの一瞬。けれど、はっきり見えた。
「今、挿絵が……動いた!」
美優は弁当のふたを閉め、顔をしかめた。「見てない。やめて。怖いから。……ほんとに?」
私はうなずき、ページの端を押さえて閉じる。音は止む。
手のひらに汗。胸が少し苦しくなった。
◇
五時間目の前。廊下の声が遠のいて、教室は静かだ。
私はもう一度だけ、机の上で開く。
首のうしろに鳥肌が立った。指先がさらに冷える。すぐ戻る。
分け目の角度と、まつげの影が私とそっくりに見える。視線が離れにくい。
私はゆっくり閉じた。
そのまま、手を離して様子を見る。
窓は閉まっている。空気は動かない。
——ペラ。
閉じたはずの本が、“上向き”に一度だけ勝手に開いた。
紙の下から「ねえ」と短い息。腕に鳥肌。
私は両手で押さえ、もう一度閉じる。今度はページは開かない。
美優がノートをしまいながらこっちを見る。
「明美、顔、こわいよ。平気?」
「……うん」
声が少しだけかすれた。水がほしくなる。
片づけて、教室を出る準備をする。
帰る前に、もう一度だけ窓ガラスを見るか迷って、やめた。
今日は開くたびに“息”が聞こえた。
閉じても、一度だけ勝手に開いた。
女の人は、たしかに『おいで』と言った。
指先の冷たさが残ったまま、私はゆっくり立ち上がった。
一時間目、国語。
田中先生の声。「五十五ページ、開けて」
私はページをめくる。紙が指に吸いつく。
その瞬間、頭の中がふわっと揺れた。空気が軽くなって、背中がぞっとする。
黒板の字はふつうに読める。先生の机のあたりは消毒液のにおいが強く、窓の枠のほこりだけが糸みたいに光った。
「換気してる?」と美優。
私はうなずく。なのに、ページの白いところだけが明るい。
教科書を見ると「四十八」ページに戻っている。旅の女の人がこちらを見る。
そのとき、紙の下から「ねえ」と短い息が出た。
胸がドクッとする。私は美優の袖をつつく。
「今の、聞こえた?」
「聞こえないよ、明美。どうしたの」
私は何も言わず、本を閉じた。音は止む。指先が冷たい。
◇
昼休み。教室は半分くらい空いている。窓からの風は弱い。
私は席に戻り、同じページをそっと開く。
こめかみがキュッと痛んだ。視界の端が一瞬ぼやけたが、すぐ戻る。
ふと、窓ガラスの反射に目がいった。
反射の中で、あの女の人の口元が一瞬だけ浮かび上がった。
視線を紙に戻す。
挿絵の女の人の手が、動いて手招きをしている。「おいで」と呼んでるように。
ほんの一瞬。けれど、はっきり見えた。
「今、挿絵が……動いた!」
美優は弁当のふたを閉め、顔をしかめた。「見てない。やめて。怖いから。……ほんとに?」
私はうなずき、ページの端を押さえて閉じる。音は止む。
手のひらに汗。胸が少し苦しくなった。
◇
五時間目の前。廊下の声が遠のいて、教室は静かだ。
私はもう一度だけ、机の上で開く。
首のうしろに鳥肌が立った。指先がさらに冷える。すぐ戻る。
分け目の角度と、まつげの影が私とそっくりに見える。視線が離れにくい。
私はゆっくり閉じた。
そのまま、手を離して様子を見る。
窓は閉まっている。空気は動かない。
——ペラ。
閉じたはずの本が、“上向き”に一度だけ勝手に開いた。
紙の下から「ねえ」と短い息。腕に鳥肌。
私は両手で押さえ、もう一度閉じる。今度はページは開かない。
美優がノートをしまいながらこっちを見る。
「明美、顔、こわいよ。平気?」
「……うん」
声が少しだけかすれた。水がほしくなる。
片づけて、教室を出る準備をする。
帰る前に、もう一度だけ窓ガラスを見るか迷って、やめた。
今日は開くたびに“息”が聞こえた。
閉じても、一度だけ勝手に開いた。
女の人は、たしかに『おいで』と言った。
指先の冷たさが残ったまま、私はゆっくり立ち上がった。