教科書に笑う顔
第4話 おいで
「ただいま」
「おかえり、明美。手、洗ってね」
台所の水の音。テレビの笑い声。ふつうの夕方だ。少し安心して、私は部屋へ入った。
窓をしっかり閉める。カーテンは半分あける。扇風機は止めた。デスクライトをつける。教科書は鞄に入れたまま、ノートだけ机に出した。
ノートを開いた瞬間、遠くでキンとする音が聞こえた。すぐ消えたのに、背中がぞわっとした。
「お母さん、今の音、聞こえた?」
「何の音。宿題おわったの」
母の声があの女の人の声に似ている気がして、胸がドクッと跳ねる。
ふと窓ガラスの反射を見る。机の上が映っている。その反射の中で、旅の女の人の口元が一瞬だけ上がった。鳥肌がぶわっと立つ。
教科書は開いていないのに——。
私は鞄から教科書を出し、表紙を下にして机へ。セロテープを短くちぎり、表紙の角を軽くとめた。手が少し震える。深呼吸して、そっと離す。
窓は閉まっている。
それなのに、表紙の端が上にふっと浮いて、一枚めくれた。——ペラ。
紙の下から「ねえ」という短い息。窓ガラスの中で、女の人の手が「おいで」の形をしている。デスクライトがぱちと瞬いた。空気がひやっと冷え、吐いた息がすこし白い。指先が氷みたいに冷たく、しびれる。
「お母さん、本が勝手に——」
「どうしたの。どうしたの。」
同じ言い方で二回。まったく同じ声に聞こえた。喉がからからになって、声が続かない。私は両手で本を閉じた。音は止まる。
手を離すと、机の下の鞄の口がカチ…とわずかに開く音。心臓が早くなる。目覚ましの秒針のコツ、コツが、さっきより長く聞こえる。
視線の端で、窓のガラスを見る。
窓のガラスにうっすらと映る女の人が、こっちへ笑いかけた。
その口が、ゆっくり二度、「おいで」としゃべる。
デスクライトが一度だけ消えかけ、部屋の音がすっと遠のく。
膝の力が抜け、床にくずれそうになる。
視界がすっと遠のいた。
「おかえり、明美。手、洗ってね」
台所の水の音。テレビの笑い声。ふつうの夕方だ。少し安心して、私は部屋へ入った。
窓をしっかり閉める。カーテンは半分あける。扇風機は止めた。デスクライトをつける。教科書は鞄に入れたまま、ノートだけ机に出した。
ノートを開いた瞬間、遠くでキンとする音が聞こえた。すぐ消えたのに、背中がぞわっとした。
「お母さん、今の音、聞こえた?」
「何の音。宿題おわったの」
母の声があの女の人の声に似ている気がして、胸がドクッと跳ねる。
ふと窓ガラスの反射を見る。机の上が映っている。その反射の中で、旅の女の人の口元が一瞬だけ上がった。鳥肌がぶわっと立つ。
教科書は開いていないのに——。
私は鞄から教科書を出し、表紙を下にして机へ。セロテープを短くちぎり、表紙の角を軽くとめた。手が少し震える。深呼吸して、そっと離す。
窓は閉まっている。
それなのに、表紙の端が上にふっと浮いて、一枚めくれた。——ペラ。
紙の下から「ねえ」という短い息。窓ガラスの中で、女の人の手が「おいで」の形をしている。デスクライトがぱちと瞬いた。空気がひやっと冷え、吐いた息がすこし白い。指先が氷みたいに冷たく、しびれる。
「お母さん、本が勝手に——」
「どうしたの。どうしたの。」
同じ言い方で二回。まったく同じ声に聞こえた。喉がからからになって、声が続かない。私は両手で本を閉じた。音は止まる。
手を離すと、机の下の鞄の口がカチ…とわずかに開く音。心臓が早くなる。目覚ましの秒針のコツ、コツが、さっきより長く聞こえる。
視線の端で、窓のガラスを見る。
窓のガラスにうっすらと映る女の人が、こっちへ笑いかけた。
その口が、ゆっくり二度、「おいで」としゃべる。
デスクライトが一度だけ消えかけ、部屋の音がすっと遠のく。
膝の力が抜け、床にくずれそうになる。
視界がすっと遠のいた。