もう分別のある 大人ですから
「おはよう」

夏希は更衣室で、同僚の白石の隣に立ち、淡々と着替え始めた。

「ねえねえ、今日さ、中途でイケメンが入ってくるらしいよ」

白石は相変わらず情報が早い。どこから仕入れてくるのか、社内の噂はだいたい彼女を経由して広がる。

「へえ、珍しいね」

興味なさそうに返すと、白石はそれでも楽しそうに話を続ける。

「青葉は彼氏いるもんね。もう長いんだっけ?」

来た、と夏希は内心身構えた。
白石の詮索が始まると長い。しかも、うっかり話せばどこまで広がるかわからない。

「まあ……それなりに」

「結婚とかは?」

「まだ、全然」

「どんな仕事してる人?」

質問は止まらない。
夏希は当たり障りのない返事を選びながら、会話を切り上げるタイミングを探していた。

「白石、さては男紹介してもらう気でしょ」

横から別の同僚が茶化す。

「違うって。ただ気になっただけ」

「はいはい。じゃあ、お先に」

夏希は素早く着替えを終え、更衣室を出た。
今回もなんとか切り抜けたけれど、油断はできない。

受付に立って間もなく、見慣れない男性が入ってきた。

「おはようございます。本日付で営業部に配属された、赤澤春です」

すっと背筋の伸びた立ち姿に、よく似合ったスーツ。
――ああ、さっき白石が言っていた人だ。

「おはようございます。こちらにお名前のご記入をお願いします」

対応しながら、夏希はふと引っかかりを覚えた。
どこかで聞いたことのある名前。

春が書き終えた用紙を受け取り、漢字を見た瞬間、記憶が一気に引き戻される。
中学時代、同じクラスにいた男子。名前だけは、確かに覚えている。

そっと顔を見上げると、はっきりとは思い出せないけれど、どこか面影があった。
その視線に気づいたのか、春も夏希の胸元のネームタグに目を落とす。

一瞬、沈黙。

お互いに気づいたけれど、確信が持てない。
昔、特別に仲が良かったわけでもない。

「では、社員証ができるまで、こちらのカードをお使いください」

「ありがとうございます」

形式的なやり取りを終え、春はそのまま立ち去ろうとした。
けれど、ふと足を止め、気まずそうにこちらを振り返る。

「あの……青葉夏希、さんですか」

夏希は少し驚いた顔で、軽く頷いた。

「うん。赤澤くん……だよね」

こんな呼び方をした記憶はない。
でも、久しぶりすぎて、どう距離を詰めていいかわからなかった。

「名簿、前後だったから」

そう言って、春は少し照れたように笑う。

――そんなの、普通覚えてないでしょ。
心の中でそう思いながらも、夏希は言葉にしなかった。

「そっか……懐かしいね」

なんとなく、空気が止まる。
去るにも去れず、春は腕時計をちらりと見た。

「ごめん、時間だから」

「あ、うん。じゃあ」

「また」

その一言が、胸に静かに残った。

ほんの一瞬の出来事だったのに、心臓の音がやけに大きく感じる。
体の奥がじんわりと温かくなって、夏希は自分が生きていることを強く意識した。

白石がこの場にいなかったことが、今は何よりの救いだ。
もし見られていたら、きっと質問攻めにあっていた。

――また、っていつだろう。

そんなことを考えながら、夏希は何事もなかったように受付業務に戻った。
< 2 / 13 >

この作品をシェア

pagetop