夜を繋いで君と行く
夜を揺らした声
 9月になってもむしむしとした日が続いて、早く涼しくならないかと思いつつ、今日もPCと向き合いながら仕事をしていた。定時まであと10分。何も変わらない毎日をただただこなし、時々里依とオタク話に花を咲かせ、ソシャゲを適当に回したり、映画や動画を観たりする。そんなルーティーンの中を生きている怜花にとって、8月にバーベキューをしたというのは、非日常だったなと今更ながら思う。

(…一応、現実なんだよね、あれって。今思えば、声優的にも豪華メンバーだったし、あの場に私がいた違和感たるや…。)

 定時になった。怜花はいつも通りの流れで片付け、オフィスを後にする。オフィス前にある横断歩道を渡り、そこから徒歩で約5分のところにある地下鉄の駅から最寄り駅まで帰る。慣れすぎて目を瞑っても帰れるような単純明快な道で、怜花を引き留めるものは何もない、はずだった。

「一橋さん。」

 呼ばれたので振り返ると、社内で多少はやり取りのある相手だった。

「…なん、ですか?」

 社外で社内の人に話しかけられることほど嫌なことはない。ただ、それを表に出さないように生きることが、いわゆる上手い立ち回りであることも心得てはいる。心の中は不快感でいっぱいだったが、表情は努めて穏やかに怜花は尋ねた。

「いやー一橋さんと仕事じゃない場面でも話したくて。」
「…なんで、ですか?」
「え?だって、一橋さんもそうだよね?帰るところが見えたからつい声をかけちゃいました。」

 可愛らしく言ってるつもりなのだろうが、全く可愛くない。ただの迷惑でしかなかった。それになぜ『怜花もそう』だと思ったのかも理解しがたい。確かこの人には彼女がいたはずだ。席の近い女がランチの時間に言っていたような気がする。社内恋愛自体を否定するつもりはないが、それを喋ってしまうのはいかがなものなのだろうかと思いつつも口をつぐんだからよく覚えている。

「失礼ながら、彼女がいるのに私に声をかけるのは、その、いいんですか?」
「彼女?…ああ、三木本さん?彼女が言ってたの?」
「……。」

 ここで肯定したら彼女の立場が悪くなるのかもしれない。ただ、このままこの人に押し切られて、何か事が進んでしまうことも嫌だった。動けなくなってしまった怜花の腕に、男の手が触れた。

「一橋さんが俺がいいって言うなら…。」

(それで悪者になるのは、あなたじゃないでしょう?)

 怜花の気持ちの欠片すら、この人にはきっとわからない。諦めにも似た気持ちが怜花を俯かせた。その時だった。

「怜花?」

 夜の闇を、そして鼓膜を揺らした声が、怜花の顔をゆっくりと上げさせた。
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