年下ワンコと完璧上司に溺愛されて困っています。
 私はため息をひとつ落とし、両手で顔を覆った。
 いつの間にかそのまま眠りに落ちていて、目を覚ましたのはチャイムの音だった。
 時計を見れば、まだ朝の六時過ぎ。こんな時間に来るのは……。と、胸がざわつく。

 ピンポーン——、ピンポーン。

 慌ててインターホンのモニターを覗き込む。
 そこに映っていたのは、碧だった。

「……碧?」

 指が震えて、オートロックの解除ボタンに触れかけた。
 けれど——どうしても押せなかった。

 ピンポーン……ピンポーン——

 モニター越しに碧が小刻みに手を振っているのが見えた。胸がぎゅっとなる。

(ごめん、ごめんね。今、大人の余裕なんて見せられない。私、ただの重い女だから……)

 そんなことを心の中で呟きながらも、指は震えたまま。

 数回鳴らされて、チャイムはようやく止んだ。
 碧はモニターの中で肩を落とし、消えるように立ち去る。多分、あきらめて帰ったのだろう。

 私はベッドに戻り、シーツに顔を埋めた。
「……ごめんね、碧……」
 胸の奥からこぼれたその言葉と同時に、頬を一筋の涙が伝った。

 涙にまぶたを重くしながら目を閉じると、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。

 次に目を覚ましたとき、時計の針は十時を少し過ぎていた。
 休日の午前。カーテン越しに差し込む光は眩しく、部屋は静かだった。

 重い体を起こし、洗濯や掃除をこなすうちに、少しだけ気分が整っていく。
(せっかくの休みだし、手の込んだものを作ろうかな)
 冷蔵庫を開けると、挽肉とキャベツが目に入った。

(……餃子にしよう)

 でも皮がないから、スーパーで買ってこなきゃ。ついでにビールも追加しとこう。

 そう思いながら玄関のドアを開けた瞬間、視界の端に小さな影が映った。
 玄関脇の薄暗がりに、誰かが丸くうずくまっている。

「ひゃっ!!」

 金色の髪が廊下の光に揺れる。目の前にいたのは、——碧だった。
 長い時間そこにいたのだろうか、髪は乱れて額にかかり、シャツは汗で少し湿っている。
 その表情は驚くほど子どもじみて、申し訳なさそうに俯いていた。

「あ……おねーさん、やっと会えた……」

 言葉は小さく、だけどどこかしみじみと安堵を含んでいた。
 にこっと笑ったその顔は、待ちくたびれた子犬がようやく飼い主を見つけたみたいで——その背後に、ちぎれんばかりに振られるしっぽが幻のように見えた。

(うそでしょ……。九月も半ばを過ぎたとはいえ、まだ暑いのに。いったいどれだけここにいたの!?)
 胸がぎゅっと締めつけられる。
 
「ずっとここにいたの?」

 私は無意識に手を伸ばし、彼の肩に触れて支え起こそうとした。
 碧は力なく立ち上がろうとしたが、足がふらついて小さく崩れそうになる。
 身体を支えようと伸ばした手の先で、薄い布切れがひらりと舞い落ちた。

 それは、見覚えのあるハンカチ。私があの日、落としたものだ。

(……私のハンカチ?)

 碧は、地面に落ちていたそれをそっと拾い上げた。
 指先は震えていて、掌の中でハンカチが少し皺になる。
 彼は私の顔を見上げ、目に光を溜めて、静かにうなずいた。

「うん。これ、渡したくて」
 その声は低く震えていて、必死さが言葉の端に滲んでいた。胸にじんと突き刺さる。

「そんなのっ……!! ポストに入れておいてくれたら……」
 そこまで言ったところで、ブワッと視界がにじみ、言葉が続かなかった。

 碧は俯いていた顔をゆっくりと上げ、真っ直ぐに私の瞳を見つめる。
 遠慮も計算もない。強さと脆さとが入り混じった、ただ真っ直ぐな意志だけがそこにあった。
 
「おねーさんに……会って、直接渡したかったんです」
 少しはにかんで、小首をかしげながら笑う。その笑顔は、尻尾を振って「褒めて」とせがむ子犬みたいで——。

 胸の奥がきゅうっと掴まれる。
 理性で積み上げてきた言い訳も、誇り高くあろうとした強がりも、ぜんぶ一瞬で溶けていく。
 
 その一言が、私の胸の堤防を決壊させた。
 それまで必死に積み上げていた理性が、一気に音を立てて崩れ落ちるのがわかった。

 




 ああ、もう——。引き返せない。
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