年下ワンコと完璧上司に溺愛されて困っています。
「まあ、その……立ち入るつもりはないけど。人生いろいろあるしな」

「やっぱり聞いてたんじゃないですかああ!」
 思わず前のめりになり、机に手をついて詰め寄ってしまった。
 
「あっ……いや、その……」
 思いがけず言葉がもつれる部長。
 てっきり、どんなことでもスマートに受け流す人だと思っていたのに、
 こうして返しに困っている様子を見ると――意外すぎて逆に面白かった。

「……すまない」

「あ、いえ! そんな部長が謝ることじゃないです! わたしが勝手にクズにひっかかっただけというか……」
 必死に取り繕ったものの、胸の奥がチクリと痛む。

「クズ……?」
 部長が眉をひそめる。

「あああ、違います! なんでもないです! 忘れてください~~っ!」
 ブンブンと手を振り、過去ごと吹き飛ばしたい気持ちでいっぱいだった。
 ――こうなったら質問攻めで誤魔化すしかない!

「……それはそうと、なぜ清掃員の格好を?」

「ああ、それはだな」
 部長は口元にかすかな笑みを浮かべた。
「実は十日前にはもう帰国していたんだが、思ったより手続きや生活の準備が早く済んでしまってね。暇を持て余していたんだ」

「ひ、暇つぶしで清掃員!?」
 思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。

「そうだ。本社ビルに出入りしている業者が日雇いの募集をしていてね。先にこっそり、みんなの様子を見てみたくなったという訳だ」
 その表情は、イタズラ好きの少年みたいで――思わず笑ってしまう。

「まさか部長が、着任前に清掃員に扮してたなんて……誰も想像しませんよ」

「もちろん副業届は提出済だし社長には話を通していたけどね。なかなか面白い体験ができたよ」
 肩をすくめて笑う仕草に、完璧超人のイメージが少しだけ和らぐ。

「それで“名乗るほどの者ではありません”って……!」
 思い出してクスクス笑いがこみあげた。

 部長も口元を緩め、肩をすくめてみせる。
「あのときは、つい格好をつけてしまったな……」
 その照れ隠しの響きに、また笑いがこぼれる。

 笑いの余韻に包まれながら――ふと、あの日のことが頭をよぎった。
 そうだ、あのとき借りたハンカチ……。

 慌てて鞄を探り、中から取り出す。

「これ……ありがとうございました」

「わざわざ返さなくてもよかったのに。むしろ、あのとき“明後日来る”なんて嘘をついてしまって……悪かった」
 部長はハンカチを受け取り、しばらく掌で眺めてから、そっと胸ポケットにしまった。

「そんな! 全然気にしないでください。助かりました。本当に……ありがとうございました」
 ペコリと深々頭を下げる。
 
 ふっと部長の口元が緩む。
「……君は律儀だね」

「あの時、ご恩はお返しします。と言いましたからね。ご恩返しは……これからですよ」
 我ながらちょっと堅苦しい返事だと思いつつも、正直な気持ちだった。

 その答えに、部長はほんのわずか笑みを見せた。
 ――次の瞬間、声音を落とし、真剣な色を帯びる。

「そうか。じゃあこうしよう」

「君は、私がこっそり清掃員をしていたことを、みんなには言わないでくれ」
 わざと声を落とし、いたずらっぽく片目をつむる。
 その余裕ある笑みは、まるで共犯関係を持ちかける悪戯好きの貴公子みたいで――胸が高鳴る。

「その代わり、私は君がクズにひっかかったことを誰にも言わない」

「なっ……!」
 思わず言葉を失う。

 そんな私を見て、部長がふっと口元を緩めた。
「……私と君だけの秘密だね」

 静かな声だった。
 けれど、低く甘い響きが耳の奥に残って、胸の鼓動が一拍遅れて跳ねる。
 
 思いがけない秘密の共有。
 それは、まるで夜の帳に包まれるように――ふたりだけの小さな世界が静かに息をした瞬間だった。

(……ずるい。こんなの、意識するなって方が無理でしょ)



 杏がそう心の中で呟いたそのとき――。

 フロアの扉の前に、人影が立っていた。
 しかし二人は気づくこともなく、夜のオフィスでひそやかに笑い合っていた。

 人影はしばし立ち止まり、やがて足音も残さず静かに去っていった。
 残されたのは、ふたりだけの秘密と、微かなざわめきだけだった。


< 34 / 34 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:3

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作家の他の作品

断罪令嬢、証拠品がアレでしたわ!

総文字数/10,976

ファンタジー9ページ

表紙を見る 表紙を閉じる
正義感だけは人一倍な暴走系伯爵令嬢アメリア・ローデリア × “氷のレオン様”と呼ばれる容姿端麗・頭脳明晰な侯爵家の嫡男レオンハルト・グレイ * * * * * * * * * 冷徹と噂の侯爵家子息と、暴走令嬢が織りなす波乱の舞踏会。 そして、ひとつのアレから始まる恋の行方は——?

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

pagetop