年下ワンコと完璧上司に溺愛されて困っています。
 ——と、思った矢先。

「おねーさーん!」

 背後から呼び止められる。振り返ると、息を弾ませた(あおい)がこちらに駆けてきて、お札を差し出していた。

「ああ、おつりはいらないよ」
 できる女を気取って、大人モードでさらりと返す。

「えっと……さっきのお札、千円札でしたよ」

「え?」

 私は足を止め、思わず硬直する。
(……え、五千円札を出したつもりだったのに!? むしろ足りてなかったじゃん!!)

「……まさかの赤字!? うそでしょ、私!!」

 思わず頭を抱える。
 財布から慌てて足りない分を取り出し、差し出す私を見て、碧はくすっと笑った。

「おねーさん、やっぱり面白いね」
 それから、子犬みたいに無邪気な笑みを深める。
「ツケでも良かったんですけど……おねーさんと、少し話したかったから」

 まっすぐ見上げてくる瞳は、まるで子犬が尻尾を振っているみたいで。
 思わず頬が熱くなる。
(……かわいい。ほんと、ずるいくらいに)

 さっきまでのよそよそしい態度が嘘のように、いつもの子犬モードに戻った笑顔。
 その切り替えに、逆にこちらが混乱する。

(な、なんなの……? さっきまでの塩対応は……?)

 そう思った瞬間、碧が「こっち」と私の腕を軽く引いた。
 人通りの少ない路地裏に誘われて、胸がざわつく。

「ごめんね。変に冷たくして」
 少し声を落とし、真剣な表情で言う。

「うちの店、お客さんとの恋愛禁止なんです。
 ……だから、おねーさんの家に行ったこと、マスターにバレたらまずいと思って。あんな態度になっちゃいました」

「えっ……」
 
 さっきの違和感の理由を知って、言葉を失う。
 碧は小さく肩をすくめ、気まずそうに笑みを浮かべた。

「びっくりさせちゃって、ごめんね?」

 一瞬だけ子犬みたいにしょんぼりして見せたあと、ふっと顔を上げて、真っ直ぐに覗き込んでくる。
 瞳がきらりと光り、心臓が跳ねた。

「でも……また、おねーさんの家に行っていい?」

 甘え声と真剣さが入り混じったその一言。
 無邪気なのに、耳元で囁かれたみたいに破壊力抜群で——

(……やばい。ずるい。反則すぎる!!)

 「あ、うん」

 ——思わず口が勝手に返事していた。
(あれれ……? 今、私なんて言った!?)

「やったー!」
 碧はぱっと顔を輝かせ、子犬みたいに無邪気に笑った。
 その笑顔に少し気が緩んだ瞬間、ふいに顔が近づく。

 路地裏の静けさの中、肩先が触れるほどの距離。
 吐息が頬をかすめて、心臓が跳ねる。

「——じゃあ。また行くね」

 低く甘い声。
 艶を含んだ囁きに、全身が震える。

 次の瞬間には、何事もなかったかのように颯爽と店へ戻っていく碧の後ろ姿。
 残された私は、その場に取り残され、胸を押さえて固まるしかなかった。

 大人の余裕を装って築き上げてきた壁は、がらがらと音を立てて崩れていく。

 蛙化現象によりわたしの六年ぶりのガチ恋未遂は終わった。
 ……はずなのに。
 気づけば、その「終わり」さえも音を立てて崩れ去っていたのだった。
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