愛故に
1
全く仕事がない。私立探偵を開業している亀田は、此処一カ月仕事にあぶれていた。全く暇なので、事務所からかなり遠方のゲームセンターに遊びに来ていた。歳がいもなくと思うのだが、壮年の遊びたるパチンコは軍資金がない為、無理なのだった。ゲームセンターとボーリング場とカラオケを併設している所で、本当はカラオケで発散もしたいところながら、此処も金がない故に不可能だった。
一頻り機械相手に遊び、昼になったので昼食を喰いに行くことにした。ゲームセンターの向かい側には、オプシアという商業施設があるが、何処も高いので、てくてくと歩いて、弁当店に向かった。値段も安く、店内で飲食可能な点は誠に便利だった。店員に、豚キムチ丼の大盛りを注文した。
そうやって辛い丼を食べていると、携帯が鳴った。
「はい、亀田探偵事務所です」
「探偵さんですか」
「ええ」
「わたくし、糸島圭子と申します」
年配の女性の声だった。
「糸島様、ご用件は何でしょう」
「息子を、私の大切な息子を探して欲しいんです」
「人探しですか。承知しました。今、どちらにお出でですか?」
「亀田探偵事務所の前に居ります」
「そうですか。誠に申し訳ありません。今、私、仕事で少し遠方に居ります。直ぐに車で向かいます。すみませんが、暫くお待ち頂けませんか」
「分かりました。お待ち致して居ります」
亀田は電話を切ると、豚キムチをかっこんだ。
宇宿から、いづろ迄の道程を運転しながら、亀田は今一つ乗り切れない雰囲気を感じ取っていた。それは予感なのか、他の体調不良か何かなのか分からなかった。兎に角、依頼人の声の調子は極めて真摯だった。それに応えることが果たして自分に可能なのか、亀田の側の問題らしく思われた。
事務所に戻ると、亀田は先ずエアコンを強にして掛けた。暑い中を待っていてくれた依頼人に、済まない気持ちで一杯だった。
「本当に申し訳なかったですね。マルヤガーデンズにでも行って、涼しい所で、お待ち頂けたら良かったのですが」
「いいえ、亀田さん、私は大丈夫です。それより息子を、一刻も早く探し出してください」
「了解しました。まずは冷たい麦茶でもどうぞ」
「有難うございます」
「さてと」亀田はデスクを挟んで、依頼人と対座した。「糸島圭子さんでしたね。息子さんの御名前は?」
「一郎といいます。今年19歳になる専門学校生です」
「一郎さん。消息を絶たれたのはいつ頃でしょうか」
「凡そ、一カ月前です」
「警察に捜索願いは出されましたか」
「出しました。でも全く見つからないんです」
「警察から何か情報は?」
「あの、吹上浜付近のコンビニで、一郎らしい姿が防犯カメラに映っていたと」
「その映像はご覧になったのですか」
「はい、警察から、見せられました」
「一郎さん本人でしたか」
「そのようでした」
「一人でしたか」
「いいえ、30歳くらいの男と一緒でした」
「その男の映像もご覧になられた?」
「はい」
「その男に見覚えは?」
「全くございません」
「良くお考えください。その男は、一郎さんの友人か、先輩ではなかったんですね」
「ええ、見たこともない男でした」
「男の特徴は?」
「特に何の変哲もない、ジーパン姿の男でした」
亀田はズボンのポケットから煙草を取り出した。
「煙草を吸っても宜しいでしょうか」
「どうぞ」
亀田は火を点けて、紫煙を吐き出した。
「一郎さんは吹上浜に行かれたんですか」
「はい、東市来に友達が居りまして。でも友達は、一郎は帰ったと言っているんです」
「友達の名前は」
「山田定光、専門学校の同級生です」
「山田さんの住所は分かりますか」
「東市来というだけで、正確には存じません」
「せめて電話番号は」
「ああ、それなら分かります。私も電話でお話したことがあるんです」
糸島圭子はスマホを取り出して、調べた。圭子が携帯番号を告げると、亀田はメモした。
「一郎さんに他にご友人は?例えば恋人は」
「居ります。杉村恵子という方です」
「矢張り同級生ですか?」
「はい、住所はちょっと分かりません」
「いいですよ。山田さんに聞きましょう」
「あの、一郎は一体何処に行ったんでしょうか」
「調査してみませんと、何とも。私は県警にパイプがありますから、尋ねてみます」
「警察も見つけ出せないんです。神隠しに遭ったようで」
「急な旅行のご予定とかはなかったんですか。今日は8月最終日、つまり夏休みの終わりですが」
「旅行なんて、全く聞いていません。一郎は私には何でも話してくれる子で、私に黙って旅行に行くなんて、考えられないんです」
「一郎さんは借金とかは、なさってないですか。例えばパチンコで借金を作ったとか」
「一郎に限って、そんなことはないと思います」
「それでは、暴力団との関係は?」
「あり得ません」
「そうですか」
「早く、早く探し出してください。あの子がいなければ、私は生きた心地がしません」
「一人息子さんですかね。他にご兄弟は」
「いません、一人息子です」
「ご主人は何をなさっている方ですか」
「主人は昨年肺癌で亡くなりました。JAXAの職員をしておりましたが」
「なる程、母子お二人だけのご家族なんですね」
「ええ」
「そうですか、それではデスク上の料金表をご覧ください。此方の探偵料をお支払い頂くということで、宜しいでしょうか」
「はい」
「そうですね、それでは一郎さんの写真をお持ちでしょうか」
「はい、いるだろうと思って、持参しました」
2
近く移転が決まっている、与次郎のサンロイヤルホテルの喫茶店。電話で安田警部補が指定してきたのは其処だった。亀田は貧乏症から高級な所は苦手で少しく緊張していた。
亀田が店内に入ると、奥のテーブルで、警部補が手を挙げた。亀田は頷き、其処に向かった。
「何か、久しぶりだな」
「叔父さん、元気してましたか」
亀田は従兄弟の安田警部補を叔父さんと呼ぶ。ほぼ同業の大きな力関係のせいだろうか。
「嗚呼、元気だった。御前の方こそ、ちゃんと喰っているか?」
「豚丼、牛丼、ハンバーガー」
「だと思った。食事が偏り過ぎだ」
「いや、安いからですよ」
「野菜も食べなくては駄目だな」
「ポテトは食べますが」
「芋は野菜かどうか分からん。緑黄色野菜のことだ」
「まあ、ボチボチです」
「ところで、本題に入るが」
「お願い致します。依頼人は母親で、息子の帰りを待ちわびています」
「そうか、手短に結論から言おう。この事件からは手を引け。悪いことは言わない」
「手を引け。何故ですか」
「余りにも危険だからだ」
「危険、唯の失踪事件ですが」
「そうはいかないんだ。これから、機密情報を話す。御前と俺だからだ」
「ええ、お願いします」
「吹上浜で不審船の目撃情報が出てきた」
「不審船?」
「これはニュースでも報じられていない。機密情報だ」
「なる程」
「そしてだ、吹上浜のコンビニで、店員が当の二人の会話を立ち聞きしていた。店員は大学生で、韓国語を学んでいる。30代の男が、モンガモゴルコイッソヨ?と言ったそうだ」
「それはどういう意味ですか」
「何か食べるものはあるか?だ」
「そうなんですか」
「そしてだ、こちらが重要なんだが、リョルチャ、と聞こえたそうだ」
「緑茶じゃないんですよね」
「冗談が通じるシチュエーションじゃないぞ。重要なのはヨルチャでなく、リョルチャと言ったことだ。その合間には時刻のことを言っていたらしい」
「どう違うんですか」
「列車という意味の韓国語と朝鮮語だ。韓国語と朝鮮語の違いは、韓国語に頭音法則があるところだ。先頭の音が脱落する。男は確かに、リョルチャと北朝鮮の言葉を口にしたんだ」
亀田は驚嘆した。
「つまり、不審船の目撃情報と合わせると、その男は北朝鮮の工作員だと言うんですか。要するに……」
「これが拉致被害の可能性があるということだ」
「驚きましたね」
「そうだろう、工作員は当然拳銃を持っているだろう。しかも暴力団などとは射撃の腕は雲泥の差だ。結論、この事件は余りにも危険だ。御前は関わるべきではない」
亀田は嘆息した。
「拉致被害者ですか。私には理解し難い世界です」
「理解し難いとは?」
「拉致被害者は酷い事件の被害者ですよね」
「嗚呼」
「にも拘わらず、国家権力の圧力に利用されている。政治的圧力に利用されているのに、それに抵抗を覚えるどころか、寧ろ積極的に加担している」
「それが理解出来ないというのか」
「ええ」
「御前、非国民だな」
「何とでも言ってください。それに家族会というのは多分に朝鮮向けのものですよね。儒教の残像の濃厚な朝鮮の家族観。日本とは微妙にずれている気すらするんですが」
「日本にも儒教の家族観は深く残っていると思うが。御前、最低のノンポリだな」
「儒教は興味深いと思いますよ。先憂後楽なんて、最高の自己犠牲の思想です」
「祖国のためなら命を失うことも厭わない。ウクライナ侵攻にもそれは現れたな。しかし朝鮮戦争が休戦中であることを忘れてはいかん。まだ戦争中なんだ。政治的圧力を掛けるのは当然だろう」
「兎も角、この失踪事件からは手を引けと仰有るんですね」
「その通りだ」
「そうですね、この依頼は断りますか」
「御前はスパイ事件に関わる資格も能力もない。それが現実だ」
「確かにですね」
3
亀田はサンロイヤルホテルを出ると、近くの家具店に立ち寄った。来客用の椅子がそろそろお釈迦になりかけている。金はないのだが、せめて来客用くらいは新品を買わなくてはと思い、家具店内を物色した。想像よりも椅子は高額だった。
溜息をついていると、スマホが鳴った。
「はい、亀田です」
「亀田さん、一郎は見つかりましたか?」
「いえ、あのですね……」
「私の大事な大事な一人息子なんです。一刻も早く見つけてください。お願い致します」
亀田は暫し絶句した。
「あの子は、それは優しい子なんですよ。あの子がいなければ、私は生きた心地がしません」
「いえ、あの、糸島さん……」
「宜しくお願い致します。調査は何処まで進んだんですか?」
亀田は返す言葉が出なかった。情にほだされた、というのか、自分をどちらかと言えば酷薄と思っていたが、そうでもないらしいことを思い知らされた。
「分かりました、調査を継続します」
自分は何を言ってるんだと思いつつ、口にした返事はそれだった。
「何か分かりましたら、報告書の方、宜しくお願い致します」
「了解しました」
電話は切れた。亀田は首を傾げた。生命の危険に足を踏み入れることになる。しかし、拉致事件の可能性を示唆されただけで、まだそうと決まった訳でもない。親子の情というものの奥深さに、自分も感染したということらしかった。
しかし果たして、何処から調査に着手すべきだろうか。
亀田は吹上浜付近迄、車を飛ばした。安田警部補から聞いたコンビニは、砂丘の近くの裏錆びた店舗らしかった。
真夏は、9月に入っても当面終わりそうもなかった。海を見に行きたい欲求が刹那湧いたが、仕事優先にした。
吹上浜の地引き網を思い出した。沢山の魚と一緒に小さな鮫が、網に掛かっていたりするものだ。
求めるコンビニ店舗は直ぐに分かった。
自動ドアすらない、店の扉を開けると、真っ直ぐレジへと向かった。今回は、はったりを試みることにした。
「店長はいるかね?警察の者だ」
「分かりました。少々お待ちください」
バイトらしい店員が、スタッフルームに居た五十格好の店長を呼んだ。白髪の店長は神妙な表情で応対した。
「警察の方ですか。今度は何でしょう」
「ああ、例の朝鮮人と19歳の少年の防犯ビデオだが、済まないが、再度提出してくれないか」
「防犯ビデオは先日、提出致しましたが」
「もう一度必要になったのだ。コピーはないのかね」
「ございます。刑事さんは運がいい。丁度同じ日の夜中に万引きがあったので、コピーを取っておきました」
「それを出してくれ」
「かしこまりました」
亀田はまんまと防犯ビデオをせしめると、コンビニ店舗を後にした。
亀田は事務所のパソコンで、ビデオを再生した。糸島圭子から貰った、一郎の写真を傍らに、求める二人を画像から探した。
直ぐに見つかった。糸島一郎だ。隣の長身の30格好の男が朝鮮人らしい。
最も30男の顔がアップになっている画像を探し出し、カラーコピーを取った。朝鮮人は短髪で精悍な顔立ちの男だ。
兎に角、男の写真を入手出来た。
次に亀田は、グーグルで、鹿児島県、朝鮮人集落、と検索を掛けた。
すると、城南町在日コリアン集落、が検索出来た。場所は意外にも近く、中央駅から東に2kmということだった。
其処は日本最古の在日コリアン集落なのだそうだ。
亀田は再度、車を走らせた。
立て看板に、立ち入り禁止、鹿児島市とあった。
ユーチューブで予備知識は得ていたものの、実際に見てみると実際殺伐とした集落だった。
否、これが集落と言えるのだろうか。トタンを貼り合わせたバラックが、幾つも滅茶苦茶な配列で並んでいる。このどれもが正式な建築許可を得ていない違法建築なのだった。
亀田は、端から聞き込みを回ることにした。
亀田の推理はこうだった。
朝鮮人の男は、時刻とともに列車について話していたのだから、車を運転しないのだろう。しかし、工作員が車を運転出来ないということがあるだろうか。工作員ならば、偽造の運転免許証くらい持っていても不思議ではない。というより、そうであるべきではないだろうか。
そうでないということは、男は工作員ではないのではないか。即ち在日の朝鮮人ではないのか。
彼が住んでいたところと言えば、鹿児島市の在日コリアン集落しかなさそうだ。
亀田は、薄汚れたバラックを一軒一軒、写真を見せて回った。
何処の家も門前払いだった。
粗い画質の写真の30男など、何処もかしこも、知らないの一点張りだった。
ある家にて、車椅子の青年が応対に出てきた。
「済みません、私立探偵の亀田といいます」
「何の用だね」
「済みません、この写真の男性に、見覚えはありませんか?」
「あるよ」
「えっ、そうなんですか」
「ああ、この先のバラックに住んでいるイチャニョンだ」
「本当ですか」
「ああ、チャニョンは此処一ヶ月くらい帰って来ない。留守だよ」
「チャニョンさんは一人暮らしなんですか」
「そうだよ、彼は本当に独りぼっちなんだ」
「恐らく警察も此処に来たと思いますが、警察にも話されましたか?」
「警察になんか、協力するものか。アンタが私立探偵だと言うから、教えてあげたんだよ」
「そうなんですね、有難うございました」
4
亀田は一旦事務所に戻ると、一郎の友人、という山田定光に電話した。
「済みません、どなたですか?」
「私立探偵の亀田といいます。圭子さんに頼まれて、糸島一郎さんを探しています」
「そうなんですか、私に何か」
「少しお話を伺いたいんですが。御自宅はどちらでしょう」
「田上です。東市来は実家です」
「正確な住所は?」
亀田は住所をメモした。
「それでは今からお伺い致します」
山田の自宅は上野城の近くだった。亀田は車をtimesに停めると、上野城下の急な階段を徒歩で上った。
山田は音楽ビデオを鑑賞していた。VHSで、デヴィッドバーンのソロコンサートだった。小規模の洒落たライブだったが、DVD化されているかは疑問だった。
「糸島はまだ見つからないんですか」
「まだです。お聞きしたいんですが、一郎さんは過去に韓国語を学習したことがあるんですか」
「韓国語ですか、さあないと思いますけど。僕も糸島も、大学に行けるような頭はないし、民間の韓国語講座のようなものも受講したことはないでしょう」
「確かですか?」
「ええ、ちょっとないと思います。僕は小学生から同級生ですが」
「お母さんの圭子さんが酷く心配しておられるんですが、一郎さんの行き先に心当たりはありませんか」
「ありませんね。しかしそんなに心配しておられる。殊勝なことです」
「殊勝なこと、と仰有るのは?」
「ご存じなかったですか。一郎は養子です。圭子さんの実子ではないんです」
亀田は些か驚嘆した。
「そうなんですか、すると……」
「一郎は10歳の時に、糸島家に貰われた、と聞いています」
「で、本当は何処の家庭の子供だったんですか?」
「それが良く分からんのですよ。子供のなかった糸島家に、何処からかマッチングで授かった子供だったようですが」
亀田は表情を変えた。
「すると、実は逆なんだ……」
「何がですか」
「いいえ、失礼しました。」
5
亀田は今や、全てを理解した。
もう一度、城南町に行かねばならないと思った。潜伏場所と言って、この狭い鹿児島に、他にある筈なかった。
城南町在日コリアン集落。此処しかあり得ないと思われた。
かなりの家を当たったので、後は残り少なかった。その何処かに潜伏している筈だった。
しかし命懸け、というより、確実に命を捨てなければならない仕事だった。弾丸が当たらないなどということは、映画の中でしか起こらない。
人はいとも容易く死ぬ。
命を懸ける理由は格別なかった。
唯単に、母親の情にほだされただけだった。しかも血の繋がりのない母子なのだ。
亀田は集落の前に、車を停めた。
再び残りの家を、一軒一軒当たるしかなかった。
「糸島一郎、居るか?」
大声で入口で、怒鳴って回った。
頭のおかしい男と思われても構わなかった。
とある一軒のバラックの前で、銃声が響いた。
来たなと思った。
銃弾は肩先を掠めて過ぎた。
「糸島一郎、居たな。私は警察官ではない。公安でもない。一介の私立探偵だ。お母さんから依頼を受けて、君を探しているだけなんだ」
家の中から返事はなかった。
「コンビニの防犯ビデオに君達の映像があった」亀田の声は流石に震えていた。「警察は、イチャニョンが北朝鮮の工作員で、君が拉致被害者だと見た。しかし実は逆で、君が工作員、イチャニョンの方が拉致被害者だ。チャニョンは朝鮮語で話していた。二人は会話していたのだ。即ち君も朝鮮語が分かる訳だ。君は韓国語を学習したことはない。とすれば、君は元々朝鮮人だったのだ。在日朝鮮人ではなく、恐らく北朝鮮の人間だろう。糸島一郎、お母さんが心底君を心配して、待っている……」
家の奥から一郎は現れた。右手に拳銃を持っている。
「君は10歳の時に糸島家に養子に入った。主人がJAXAの社員だったからだ。君は少年兵の工作員だった。それから8年に渡り、JAXAをスパイした」
一郎は拳銃を亀田に向けた。
亀田は止めなかった。
「一郎君、帰ろう。お母さんが待っている」
一郎は拳銃を自分の頭に向けた。
「何をするんだ、止めろ……」
銃声が轟いた。一郎は倒れ臥した。
亀田は声もなく、しゃがみ込んだ。
亀田の背後から、黒スーツの男が二人現れた。二人とも工作員らしかった。
「工作員か?頼みがある。遺体を始末してくれ。一郎の母親には、この事実は知らさないでほしい。飽くまで、一郎は拉致被害者だったと思い続けさせて欲しい。彼女は拉致被害者家族として、一郎を待ち続けるだろう」
一方の黒スーツの男が、亀田に拳銃を向けた。
亀田は瞑目した。
しかし何も起きなかった。
二人の男は、遺体を車に押し込み、何処かへ去って行った。
亀田は動けなかった。
〈本作品はフィクションです。登場する団体、国とは一切無関係です〉
全く仕事がない。私立探偵を開業している亀田は、此処一カ月仕事にあぶれていた。全く暇なので、事務所からかなり遠方のゲームセンターに遊びに来ていた。歳がいもなくと思うのだが、壮年の遊びたるパチンコは軍資金がない為、無理なのだった。ゲームセンターとボーリング場とカラオケを併設している所で、本当はカラオケで発散もしたいところながら、此処も金がない故に不可能だった。
一頻り機械相手に遊び、昼になったので昼食を喰いに行くことにした。ゲームセンターの向かい側には、オプシアという商業施設があるが、何処も高いので、てくてくと歩いて、弁当店に向かった。値段も安く、店内で飲食可能な点は誠に便利だった。店員に、豚キムチ丼の大盛りを注文した。
そうやって辛い丼を食べていると、携帯が鳴った。
「はい、亀田探偵事務所です」
「探偵さんですか」
「ええ」
「わたくし、糸島圭子と申します」
年配の女性の声だった。
「糸島様、ご用件は何でしょう」
「息子を、私の大切な息子を探して欲しいんです」
「人探しですか。承知しました。今、どちらにお出でですか?」
「亀田探偵事務所の前に居ります」
「そうですか。誠に申し訳ありません。今、私、仕事で少し遠方に居ります。直ぐに車で向かいます。すみませんが、暫くお待ち頂けませんか」
「分かりました。お待ち致して居ります」
亀田は電話を切ると、豚キムチをかっこんだ。
宇宿から、いづろ迄の道程を運転しながら、亀田は今一つ乗り切れない雰囲気を感じ取っていた。それは予感なのか、他の体調不良か何かなのか分からなかった。兎に角、依頼人の声の調子は極めて真摯だった。それに応えることが果たして自分に可能なのか、亀田の側の問題らしく思われた。
事務所に戻ると、亀田は先ずエアコンを強にして掛けた。暑い中を待っていてくれた依頼人に、済まない気持ちで一杯だった。
「本当に申し訳なかったですね。マルヤガーデンズにでも行って、涼しい所で、お待ち頂けたら良かったのですが」
「いいえ、亀田さん、私は大丈夫です。それより息子を、一刻も早く探し出してください」
「了解しました。まずは冷たい麦茶でもどうぞ」
「有難うございます」
「さてと」亀田はデスクを挟んで、依頼人と対座した。「糸島圭子さんでしたね。息子さんの御名前は?」
「一郎といいます。今年19歳になる専門学校生です」
「一郎さん。消息を絶たれたのはいつ頃でしょうか」
「凡そ、一カ月前です」
「警察に捜索願いは出されましたか」
「出しました。でも全く見つからないんです」
「警察から何か情報は?」
「あの、吹上浜付近のコンビニで、一郎らしい姿が防犯カメラに映っていたと」
「その映像はご覧になったのですか」
「はい、警察から、見せられました」
「一郎さん本人でしたか」
「そのようでした」
「一人でしたか」
「いいえ、30歳くらいの男と一緒でした」
「その男の映像もご覧になられた?」
「はい」
「その男に見覚えは?」
「全くございません」
「良くお考えください。その男は、一郎さんの友人か、先輩ではなかったんですね」
「ええ、見たこともない男でした」
「男の特徴は?」
「特に何の変哲もない、ジーパン姿の男でした」
亀田はズボンのポケットから煙草を取り出した。
「煙草を吸っても宜しいでしょうか」
「どうぞ」
亀田は火を点けて、紫煙を吐き出した。
「一郎さんは吹上浜に行かれたんですか」
「はい、東市来に友達が居りまして。でも友達は、一郎は帰ったと言っているんです」
「友達の名前は」
「山田定光、専門学校の同級生です」
「山田さんの住所は分かりますか」
「東市来というだけで、正確には存じません」
「せめて電話番号は」
「ああ、それなら分かります。私も電話でお話したことがあるんです」
糸島圭子はスマホを取り出して、調べた。圭子が携帯番号を告げると、亀田はメモした。
「一郎さんに他にご友人は?例えば恋人は」
「居ります。杉村恵子という方です」
「矢張り同級生ですか?」
「はい、住所はちょっと分かりません」
「いいですよ。山田さんに聞きましょう」
「あの、一郎は一体何処に行ったんでしょうか」
「調査してみませんと、何とも。私は県警にパイプがありますから、尋ねてみます」
「警察も見つけ出せないんです。神隠しに遭ったようで」
「急な旅行のご予定とかはなかったんですか。今日は8月最終日、つまり夏休みの終わりですが」
「旅行なんて、全く聞いていません。一郎は私には何でも話してくれる子で、私に黙って旅行に行くなんて、考えられないんです」
「一郎さんは借金とかは、なさってないですか。例えばパチンコで借金を作ったとか」
「一郎に限って、そんなことはないと思います」
「それでは、暴力団との関係は?」
「あり得ません」
「そうですか」
「早く、早く探し出してください。あの子がいなければ、私は生きた心地がしません」
「一人息子さんですかね。他にご兄弟は」
「いません、一人息子です」
「ご主人は何をなさっている方ですか」
「主人は昨年肺癌で亡くなりました。JAXAの職員をしておりましたが」
「なる程、母子お二人だけのご家族なんですね」
「ええ」
「そうですか、それではデスク上の料金表をご覧ください。此方の探偵料をお支払い頂くということで、宜しいでしょうか」
「はい」
「そうですね、それでは一郎さんの写真をお持ちでしょうか」
「はい、いるだろうと思って、持参しました」
2
近く移転が決まっている、与次郎のサンロイヤルホテルの喫茶店。電話で安田警部補が指定してきたのは其処だった。亀田は貧乏症から高級な所は苦手で少しく緊張していた。
亀田が店内に入ると、奥のテーブルで、警部補が手を挙げた。亀田は頷き、其処に向かった。
「何か、久しぶりだな」
「叔父さん、元気してましたか」
亀田は従兄弟の安田警部補を叔父さんと呼ぶ。ほぼ同業の大きな力関係のせいだろうか。
「嗚呼、元気だった。御前の方こそ、ちゃんと喰っているか?」
「豚丼、牛丼、ハンバーガー」
「だと思った。食事が偏り過ぎだ」
「いや、安いからですよ」
「野菜も食べなくては駄目だな」
「ポテトは食べますが」
「芋は野菜かどうか分からん。緑黄色野菜のことだ」
「まあ、ボチボチです」
「ところで、本題に入るが」
「お願い致します。依頼人は母親で、息子の帰りを待ちわびています」
「そうか、手短に結論から言おう。この事件からは手を引け。悪いことは言わない」
「手を引け。何故ですか」
「余りにも危険だからだ」
「危険、唯の失踪事件ですが」
「そうはいかないんだ。これから、機密情報を話す。御前と俺だからだ」
「ええ、お願いします」
「吹上浜で不審船の目撃情報が出てきた」
「不審船?」
「これはニュースでも報じられていない。機密情報だ」
「なる程」
「そしてだ、吹上浜のコンビニで、店員が当の二人の会話を立ち聞きしていた。店員は大学生で、韓国語を学んでいる。30代の男が、モンガモゴルコイッソヨ?と言ったそうだ」
「それはどういう意味ですか」
「何か食べるものはあるか?だ」
「そうなんですか」
「そしてだ、こちらが重要なんだが、リョルチャ、と聞こえたそうだ」
「緑茶じゃないんですよね」
「冗談が通じるシチュエーションじゃないぞ。重要なのはヨルチャでなく、リョルチャと言ったことだ。その合間には時刻のことを言っていたらしい」
「どう違うんですか」
「列車という意味の韓国語と朝鮮語だ。韓国語と朝鮮語の違いは、韓国語に頭音法則があるところだ。先頭の音が脱落する。男は確かに、リョルチャと北朝鮮の言葉を口にしたんだ」
亀田は驚嘆した。
「つまり、不審船の目撃情報と合わせると、その男は北朝鮮の工作員だと言うんですか。要するに……」
「これが拉致被害の可能性があるということだ」
「驚きましたね」
「そうだろう、工作員は当然拳銃を持っているだろう。しかも暴力団などとは射撃の腕は雲泥の差だ。結論、この事件は余りにも危険だ。御前は関わるべきではない」
亀田は嘆息した。
「拉致被害者ですか。私には理解し難い世界です」
「理解し難いとは?」
「拉致被害者は酷い事件の被害者ですよね」
「嗚呼」
「にも拘わらず、国家権力の圧力に利用されている。政治的圧力に利用されているのに、それに抵抗を覚えるどころか、寧ろ積極的に加担している」
「それが理解出来ないというのか」
「ええ」
「御前、非国民だな」
「何とでも言ってください。それに家族会というのは多分に朝鮮向けのものですよね。儒教の残像の濃厚な朝鮮の家族観。日本とは微妙にずれている気すらするんですが」
「日本にも儒教の家族観は深く残っていると思うが。御前、最低のノンポリだな」
「儒教は興味深いと思いますよ。先憂後楽なんて、最高の自己犠牲の思想です」
「祖国のためなら命を失うことも厭わない。ウクライナ侵攻にもそれは現れたな。しかし朝鮮戦争が休戦中であることを忘れてはいかん。まだ戦争中なんだ。政治的圧力を掛けるのは当然だろう」
「兎も角、この失踪事件からは手を引けと仰有るんですね」
「その通りだ」
「そうですね、この依頼は断りますか」
「御前はスパイ事件に関わる資格も能力もない。それが現実だ」
「確かにですね」
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亀田はサンロイヤルホテルを出ると、近くの家具店に立ち寄った。来客用の椅子がそろそろお釈迦になりかけている。金はないのだが、せめて来客用くらいは新品を買わなくてはと思い、家具店内を物色した。想像よりも椅子は高額だった。
溜息をついていると、スマホが鳴った。
「はい、亀田です」
「亀田さん、一郎は見つかりましたか?」
「いえ、あのですね……」
「私の大事な大事な一人息子なんです。一刻も早く見つけてください。お願い致します」
亀田は暫し絶句した。
「あの子は、それは優しい子なんですよ。あの子がいなければ、私は生きた心地がしません」
「いえ、あの、糸島さん……」
「宜しくお願い致します。調査は何処まで進んだんですか?」
亀田は返す言葉が出なかった。情にほだされた、というのか、自分をどちらかと言えば酷薄と思っていたが、そうでもないらしいことを思い知らされた。
「分かりました、調査を継続します」
自分は何を言ってるんだと思いつつ、口にした返事はそれだった。
「何か分かりましたら、報告書の方、宜しくお願い致します」
「了解しました」
電話は切れた。亀田は首を傾げた。生命の危険に足を踏み入れることになる。しかし、拉致事件の可能性を示唆されただけで、まだそうと決まった訳でもない。親子の情というものの奥深さに、自分も感染したということらしかった。
しかし果たして、何処から調査に着手すべきだろうか。
亀田は吹上浜付近迄、車を飛ばした。安田警部補から聞いたコンビニは、砂丘の近くの裏錆びた店舗らしかった。
真夏は、9月に入っても当面終わりそうもなかった。海を見に行きたい欲求が刹那湧いたが、仕事優先にした。
吹上浜の地引き網を思い出した。沢山の魚と一緒に小さな鮫が、網に掛かっていたりするものだ。
求めるコンビニ店舗は直ぐに分かった。
自動ドアすらない、店の扉を開けると、真っ直ぐレジへと向かった。今回は、はったりを試みることにした。
「店長はいるかね?警察の者だ」
「分かりました。少々お待ちください」
バイトらしい店員が、スタッフルームに居た五十格好の店長を呼んだ。白髪の店長は神妙な表情で応対した。
「警察の方ですか。今度は何でしょう」
「ああ、例の朝鮮人と19歳の少年の防犯ビデオだが、済まないが、再度提出してくれないか」
「防犯ビデオは先日、提出致しましたが」
「もう一度必要になったのだ。コピーはないのかね」
「ございます。刑事さんは運がいい。丁度同じ日の夜中に万引きがあったので、コピーを取っておきました」
「それを出してくれ」
「かしこまりました」
亀田はまんまと防犯ビデオをせしめると、コンビニ店舗を後にした。
亀田は事務所のパソコンで、ビデオを再生した。糸島圭子から貰った、一郎の写真を傍らに、求める二人を画像から探した。
直ぐに見つかった。糸島一郎だ。隣の長身の30格好の男が朝鮮人らしい。
最も30男の顔がアップになっている画像を探し出し、カラーコピーを取った。朝鮮人は短髪で精悍な顔立ちの男だ。
兎に角、男の写真を入手出来た。
次に亀田は、グーグルで、鹿児島県、朝鮮人集落、と検索を掛けた。
すると、城南町在日コリアン集落、が検索出来た。場所は意外にも近く、中央駅から東に2kmということだった。
其処は日本最古の在日コリアン集落なのだそうだ。
亀田は再度、車を走らせた。
立て看板に、立ち入り禁止、鹿児島市とあった。
ユーチューブで予備知識は得ていたものの、実際に見てみると実際殺伐とした集落だった。
否、これが集落と言えるのだろうか。トタンを貼り合わせたバラックが、幾つも滅茶苦茶な配列で並んでいる。このどれもが正式な建築許可を得ていない違法建築なのだった。
亀田は、端から聞き込みを回ることにした。
亀田の推理はこうだった。
朝鮮人の男は、時刻とともに列車について話していたのだから、車を運転しないのだろう。しかし、工作員が車を運転出来ないということがあるだろうか。工作員ならば、偽造の運転免許証くらい持っていても不思議ではない。というより、そうであるべきではないだろうか。
そうでないということは、男は工作員ではないのではないか。即ち在日の朝鮮人ではないのか。
彼が住んでいたところと言えば、鹿児島市の在日コリアン集落しかなさそうだ。
亀田は、薄汚れたバラックを一軒一軒、写真を見せて回った。
何処の家も門前払いだった。
粗い画質の写真の30男など、何処もかしこも、知らないの一点張りだった。
ある家にて、車椅子の青年が応対に出てきた。
「済みません、私立探偵の亀田といいます」
「何の用だね」
「済みません、この写真の男性に、見覚えはありませんか?」
「あるよ」
「えっ、そうなんですか」
「ああ、この先のバラックに住んでいるイチャニョンだ」
「本当ですか」
「ああ、チャニョンは此処一ヶ月くらい帰って来ない。留守だよ」
「チャニョンさんは一人暮らしなんですか」
「そうだよ、彼は本当に独りぼっちなんだ」
「恐らく警察も此処に来たと思いますが、警察にも話されましたか?」
「警察になんか、協力するものか。アンタが私立探偵だと言うから、教えてあげたんだよ」
「そうなんですね、有難うございました」
4
亀田は一旦事務所に戻ると、一郎の友人、という山田定光に電話した。
「済みません、どなたですか?」
「私立探偵の亀田といいます。圭子さんに頼まれて、糸島一郎さんを探しています」
「そうなんですか、私に何か」
「少しお話を伺いたいんですが。御自宅はどちらでしょう」
「田上です。東市来は実家です」
「正確な住所は?」
亀田は住所をメモした。
「それでは今からお伺い致します」
山田の自宅は上野城の近くだった。亀田は車をtimesに停めると、上野城下の急な階段を徒歩で上った。
山田は音楽ビデオを鑑賞していた。VHSで、デヴィッドバーンのソロコンサートだった。小規模の洒落たライブだったが、DVD化されているかは疑問だった。
「糸島はまだ見つからないんですか」
「まだです。お聞きしたいんですが、一郎さんは過去に韓国語を学習したことがあるんですか」
「韓国語ですか、さあないと思いますけど。僕も糸島も、大学に行けるような頭はないし、民間の韓国語講座のようなものも受講したことはないでしょう」
「確かですか?」
「ええ、ちょっとないと思います。僕は小学生から同級生ですが」
「お母さんの圭子さんが酷く心配しておられるんですが、一郎さんの行き先に心当たりはありませんか」
「ありませんね。しかしそんなに心配しておられる。殊勝なことです」
「殊勝なこと、と仰有るのは?」
「ご存じなかったですか。一郎は養子です。圭子さんの実子ではないんです」
亀田は些か驚嘆した。
「そうなんですか、すると……」
「一郎は10歳の時に、糸島家に貰われた、と聞いています」
「で、本当は何処の家庭の子供だったんですか?」
「それが良く分からんのですよ。子供のなかった糸島家に、何処からかマッチングで授かった子供だったようですが」
亀田は表情を変えた。
「すると、実は逆なんだ……」
「何がですか」
「いいえ、失礼しました。」
5
亀田は今や、全てを理解した。
もう一度、城南町に行かねばならないと思った。潜伏場所と言って、この狭い鹿児島に、他にある筈なかった。
城南町在日コリアン集落。此処しかあり得ないと思われた。
かなりの家を当たったので、後は残り少なかった。その何処かに潜伏している筈だった。
しかし命懸け、というより、確実に命を捨てなければならない仕事だった。弾丸が当たらないなどということは、映画の中でしか起こらない。
人はいとも容易く死ぬ。
命を懸ける理由は格別なかった。
唯単に、母親の情にほだされただけだった。しかも血の繋がりのない母子なのだ。
亀田は集落の前に、車を停めた。
再び残りの家を、一軒一軒当たるしかなかった。
「糸島一郎、居るか?」
大声で入口で、怒鳴って回った。
頭のおかしい男と思われても構わなかった。
とある一軒のバラックの前で、銃声が響いた。
来たなと思った。
銃弾は肩先を掠めて過ぎた。
「糸島一郎、居たな。私は警察官ではない。公安でもない。一介の私立探偵だ。お母さんから依頼を受けて、君を探しているだけなんだ」
家の中から返事はなかった。
「コンビニの防犯ビデオに君達の映像があった」亀田の声は流石に震えていた。「警察は、イチャニョンが北朝鮮の工作員で、君が拉致被害者だと見た。しかし実は逆で、君が工作員、イチャニョンの方が拉致被害者だ。チャニョンは朝鮮語で話していた。二人は会話していたのだ。即ち君も朝鮮語が分かる訳だ。君は韓国語を学習したことはない。とすれば、君は元々朝鮮人だったのだ。在日朝鮮人ではなく、恐らく北朝鮮の人間だろう。糸島一郎、お母さんが心底君を心配して、待っている……」
家の奥から一郎は現れた。右手に拳銃を持っている。
「君は10歳の時に糸島家に養子に入った。主人がJAXAの社員だったからだ。君は少年兵の工作員だった。それから8年に渡り、JAXAをスパイした」
一郎は拳銃を亀田に向けた。
亀田は止めなかった。
「一郎君、帰ろう。お母さんが待っている」
一郎は拳銃を自分の頭に向けた。
「何をするんだ、止めろ……」
銃声が轟いた。一郎は倒れ臥した。
亀田は声もなく、しゃがみ込んだ。
亀田の背後から、黒スーツの男が二人現れた。二人とも工作員らしかった。
「工作員か?頼みがある。遺体を始末してくれ。一郎の母親には、この事実は知らさないでほしい。飽くまで、一郎は拉致被害者だったと思い続けさせて欲しい。彼女は拉致被害者家族として、一郎を待ち続けるだろう」
一方の黒スーツの男が、亀田に拳銃を向けた。
亀田は瞑目した。
しかし何も起きなかった。
二人の男は、遺体を車に押し込み、何処かへ去って行った。
亀田は動けなかった。
〈本作品はフィクションです。登場する団体、国とは一切無関係です〉
