義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】

 顔を上げると、入ってきたのは義弟の律だった。
 雨に濡れた髪が少し乱れており、律もまた、整った顔立ちを曇らせている。
 
「菜月姉さん……ここにいたんだ」
 
 律の声を聞いた瞬間、私は感情の糸が切れたように歩み寄り、すがりついた。

「律……!」
 
 この悲しみを一人で抱えきれず、誰かを頼らずにはいられなかった。
 
「泣かないで、姉さん……」
 
 律は腕を回し私を抱きしめてくれたけど、涙で声が震えて何も言葉にできなかった。
 ただ、失ったものの重さだけが全身にのしかかってくる。それを一人で支えきれるほど、私は強くはなかった。律の声が耳元で低く響く。
 
「俺が、そばにいるから……」
 



 
 亡くなった彰人さんは、私の義理の兄でもあった。
 私は早くに両親を亡くし、遠縁である宝堂家に引き取られ、彰人さんや律とは兄弟同然に過ごしてきた。
 彰人さんは、端整な顔立ちに、いつもきちんと整えられた身だしなみ。周囲の女性たちが一目で惹かれるほどの見目の良さを持ちながら、本人はまったく気取らず、どこまでもクールで穏やかだった。
 家では、そんな彰人さんがふと見せる優しい笑顔や、何気ない気遣いが何よりも嬉しかった。私が何か悩んでいるときは、黙って隣に座り、言葉ではなくその存在だけで心を支えてくれる。
自慢の義兄(あに)だった。私は、そんな彰人さんに子供の頃から心惹かれていた。
 
 私が大学を卒業し、彰人さんの仕事を手伝うようになって数年──二十五歳の時のことだった。彰人さんから突然プロポーズされたのだ。家のリビングで唐突に言われたものだから、全然ロマンチックじゃなかったけれど。
 あまり感情を表に出さない人だったから、私のことなんて単なる義妹(いもうと)としか見ていないと思っていたのに。けれど、普段は口数の少ない彰人さんが頬を染めて懸命に気持ちを伝えてくれたことが嬉しくて、迷うことなくその場で承諾した。

 彰人さんの職業は弁護士だった。仕事では誰もが一目置くほどで、多くの人に信頼されていた。いつも難しい案件を抱えていた一方で、口癖のようにこう言っていた。
「弁護士という職業は感謝されることもあれば、被害者の遺族から恨まれることもある」
 だから自分に何かあってもいいように、と常に遺言のような話をしていた。遺言だなんてまだ早いと思っていたけど、それが彰人さんなりの優しさなんだと感じていた。けれどまさか、こんなに早く別れが来てしまうなんて想像もしていなかった。
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