義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
 *

 
 ビルのエントランスを出ると、雨上がりの冷たい北風が吹いた。
 アスファルトの水たまりは、街灯の光を反射している。
 最近は日暮れも早いし、本格的な冬になりそうだ。
 
「軽井沢先生、今日はありがとうございました」
「うん……」
 
 浮かない顔で、軽井沢さんは曖昧に返す。

「どうかしたんですか……?」
「いや、なんでもない。……菜月ちゃん」

 軽井沢さんは、いつになく真剣な表情を向けた。
 この人がこういう顔をするのは、本気の時だ。
 
「絶対に危険なことはしないように」
「わかりました」
「……よし」
 
 表情が和らぎ、軽井沢さんはいつものように私の頭を撫でた。
 
「駅まで送ろうか」
「大丈夫ですよ、近くですし」
「じゃあ、ここで」
「はい。お疲れ様でした」

 ぺこりと頭を下げると、私たちはビルの入り口で分かれてそれぞれ互いの帰路につく。
 背後から、タイヤが水を弾く音が聞こえた。
 振り返ると、少し離れた場所から白い乗用車がこちらへ近づいてくる。
 なんの変哲もない車。ヘッドライトが眩しくて、反射的に目を細めた、その瞬間。
 そのまま横を通り過ぎるのかと思っていた車は、スピードを上げ歩道の境界線を超えた。
 明らかにこちらへ向かってくる。

「──菜月ちゃん!!」
 
 後ろから軽井沢さんの叫び声が飛んできた。
 反射的に身体をひねると、風圧とともに車のサイドミラーがコートをかすめ、冷たい雨粒が散った。間一髪避けたが、体勢を崩してアスファルトの上に倒れ込む。
 水たまりの濁った水が跳ねた。
 車はスピードを緩めることなく、そのまま車道へ出て行ってしまった。
 赤いテールランプが遠ざかっていく。車のナンバーを見る余裕なんてなかった。
 ゆっくりと上半身を起こすと、軽井沢さんが駆け寄ってきてくれた。
 
「菜月ちゃん、大丈夫か!?」
「転んだだけです、大丈夫……」

 そう言いながらも、声は震えていた。
 見下ろすと、スカートもコートも汚れている。

「やっぱり送るよ」
「そんな、転んだだけなのに」
 
 軽井沢さんに手を借りて立ち上がると、膝が震えた。
 恐怖が、じわりと後から来たようだ。
 軽井沢さんは何も言わずに、スーツのジャケットを脱いで私の肩にかけてくれる。
 
「菜月ちゃんに何かあったら、俺が龍樹にどつかれる」
 
 いつものように、ふざけたように言ってくる軽井沢さんの手が、ぎゅっと私の肩を掴む。
 けれど、その気遣いに安心して、ふっと頬が緩んだ。
 
「じゃあ……お願いします」

 あれは一体、なんだったのだろう……。
 肩にかけられたジャケットを握りしめながら、車の去っていった方向を見つめた。そこにはただ、暗闇が残っているだけだった。
 
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