義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
 ***

「姉さん、どうしたの!?」
 
 玄関を開けるなり、律はぎょっと目を疑った。
 傘もささずに帰ってきたのかと錯覚するほど、義姉(菜月)のコートは泥でまだらに染まっている。

「ドロドロじゃないか!」
「あ、ちょっと、転んで……」
(転んだ……?)
 
 菜月は笑っていたが、とてもそんなふうには思えないほどの姿だ。
 誤魔化そうとしているとしか思えない。
 
 しかも、男物のジャケットを肩にかけている。
 何かあったに違いないと、律は顔を顰めた。
 菜月の両肩に置かれた広い手に気づき、唇を噛む。

 視線を上げると見知った男の顔で、律はほんの少しだけ安堵して表情を緩める。
 
「軽井沢さん、ありがとうございます。お久しぶりですね」
「ああ、海外から帰ってからは、初めてだな」

 軽井沢がワイシャツ姿なことから、菜月が肩にかけているのは彼のジャケットなのだと容易に想像できる。それでも、菜月の身に何かあって、こうして送ってくれたのだからありがたく思わなければ。
 そう思うのに、心のもやもやが、消えない。
 律は極めて平静を装って、菜月に話しかけた。
 
「姉さん。内村さんは帰っちゃったけど、お風呂沸いてるから。入ってきて」
「そうね……」

 菜月の元気のない表情に、律はツキンと胸を痛める。
 なぜ、そこにいたのが自分でなかったのか。
 なぜ、自分が菜月を守れなかったのか。
 お礼と淡い微笑みを向けるのは、自分ではなく、父の旧友。
 
「軽井沢先生、ありがとうございました。ジャケット、後日お返しします」
「ああ、急がなくていいよ。また明日」

 菜月が軽井沢から離れて、ほっとする。
 まっすぐに浴室へ向かっていくのを見届けてから、律は軽井沢へ向き直った。

「軽井沢さん」
「ん?」
「姉さん、軽井沢さんの下で働いてるの?」
「ああ、彰人くんがいなくなったから」

 助手である菜月が別の弁護士につくのは、何も不思議なことではない。
 それが他の者ではなく見知った軽井沢であったことは、律の心を安心させた。
 
「あ、そうだ」
 
 軽井沢が、帰ろうと玄関のドアに手をかけたところで振り返る。
 
「律くん、彰人くんが日記を書いていたことは知ってるかい?」

 その言葉で、律は無意識のうちに軽井沢を探るような視線を向ける。
 
「……知らないけど……。軽井沢さんは、どこでそれを?」
「いや、菜月ちゃんに聞いてね。なんて書いてあったと思う?」

 律の指が、密かにぴくりと反応した。
 次の瞬間、律は満面の笑みを軽井沢に見せる。
 
「さあ……? でも、兄さんのことだから、姉さんのことばっかり書いてそう」
「ご名答」

 ウインクを残して、軽井沢は帰って行った。
 律は笑顔のまま振っていた手を、ゆっくりと下げる。

(ふぅん、姉さん……軽井沢さんにあれを見せたんだ……)
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