義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
 *
 

 夜、布団に入っても今朝のことが頭から離れなかった。
 律が声を荒らげたこと。あの一瞬、言葉に詰まった顔。
 考えすぎだと分かっている。律は昔から、私のことになると少し必死になるだけだ。
 それなのに、胸の奥に引っかかった棘が、まだ抜けきらない。
 謝ったほうがいいのかもしれない。
 今朝のダイニングでのことも、ストラップを探していた時のことも……。

 気づけば、廊下に立っていた。
 謝ろうと決めてここまで来たはずなのに、いざ扉の前に立つと、どう切り出せばいいのかわからなくなる。
 ノックするべきか、もう少し考えるべきか。
 律の部屋の前で深呼吸する。
 
(もう、仕事から戻ってるよね……)

 意を決してノックしようとすると、中からぼそぼそと声が聞こえた。
 起きている、と安心したのも束の間。耳に届いた言葉の調子に違和感を覚え、ノックするのをためらわれた。まるで、誰かを威圧するような声。いつもの穏やかな律の声ではない。

(え……? 律、だよね……?)

 こっそりと、少しだけ扉を開けて、思わず聞き耳を立てる。
  
「……金の話は後にしろ」
 
 部屋の奥から、そんな律の声はっきりと聞こえた。
 仕事の話だろうかと、息を呑んで様子を窺う。
 どうやら誰かと電話で話しているようだけど、さすがに相手の声までは聞こえない。
 間を置いて、再び律の声が届く。
 
「……兄さんの話はするな」

 彰人さんの話……? と思った瞬間、律の口から信じられない言葉が吐き出された。

「──反吐が出る」

 思わず声が出そうになり、慌てて口を押さえる。
 全身の血が一瞬で引いたような感覚だった。
 しばらく会話を聞いていたが、その後も短く言葉を交わしたのち、通話を切ったようだ。
 私は、そっと音を立てないように扉を閉め、足元がふらつくのを感じながら自室へ戻った。

 今のは、どういうこと……?
 お金の話。
 彰人さんの話。
 そして「反吐が出る」という言葉。
 頭の中で何度も繰り返してみても、どこにも納得のいく答えは出ない。
 
 やっぱり彰人さんの死に律が関係しているの?
 ……そんなはずないと、信じたいのに。
 私は、震えながら布団の中に潜り込んだ。
 鼓動がうるさくて、息がうまく吸えない。
 暗闇の中で、律の声がこだまする。
 その声は、私の知っている義弟のものではなかった。
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