義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
 縋る思いで、日記を開く。
 最初に見つけた時は正直、まともに読めなかった。
 ページをめくるだけで胸が締めつけられて、流し見ることしかできなかった。
 でも今は、あの頃より少しだけ前に進めている気がする。
 だから、ちゃんと向き合いたい。
 彰人さんが残した言葉を、ひとつ残らず。
 唇を噛み締め、目を潤ませながら読んでいく。

《20XX年 6月 6日
 今日から日記をつけていこうと思う。
 始まりの今日が、俺と菜月の結婚記念日だ。新居で二人きりは緊張するが、式を終えて、やっと一息つける。菜月は、もうベッドで寝息を立てている。大人になってからの寝顔を、初めてちゃんと見た。かわいい》

 そういえば、律や軽井沢さんにもこの日記を見られたことを思い出し、途端に恥ずかしくなる。

《20XX年 7月23日
 菜月が初めて、俺の前で料理を失敗した。
 焦げた卵焼きを見せながら「ごめん……」と小さくうつむいていた。味は正直……まあ……アレだったが、失敗した時の菜月の顔を思い出すと、今でも微笑ましい。》

 彰人さん、こんな些細なことまで書いていたの?
 クスッと笑ってしまう。その後も、毎日の小さな出来事が綴られていた。
 読み進めていくと、途中で1ページびっしりと文字の埋まったページがあった。
 
《20XX年 9月10日
 俺の帰りが遅くなる日、菜月は必ずリビングの電気をつけて待っている。
 テレビをつけながら、ソファでうたた寝していた。ブランケットをかけたら、小さく「……おかえり」と呟いた。その一言が、仕事で疲れた心を全部ほどいてくれる。
 これを〝幸せ〟と言うんだろう。
 だが、俺は今でも菜月と結婚して良かったのかと、思うことがある。》
 
(──え?)

《宝堂の名前を背負うこと……それを菜月にまでさせていいのか、と。プレッシャー、義務、周囲の期待……それらに押し潰されそうになってきたのは、俺自身よく知っている。
 菜月はそんな場所とは無縁の世界で生きてきた。自由で、真っ直ぐで、あたたかい。
 その彼女を、俺は〝宝堂〟という檻に連れてきたのではないか、とふと怖くなる瞬間がある。
彼女が背負うはずのなかった荷物を、俺と結婚したせいで抱かせてしまっているのではないか。》

「そんなこと……」

 彰人さんはいないのに、思わず答えていた。
 
《それでも。
 菜月がソファで眠る姿を見つめていると、やっぱり思う。
 この人と生きていきたい、と。
 この人の隣で歳を重ねたい、と。
 どれだけ悩んでも、答えはそこに行き着いてしまう。
 だからせめて、彼女の負担を少しでも減らせるよう、俺が強くならなければいけない。
 宝堂の名に俺が潰されるわけにはいかない。彼女を巻き込んだ以上、なおさらだ。》

「彰人さん……」

 最初に読んだ時以上に、涙が頬を伝った。
 文字が滲んで読めなくなり、指で何度も拭った。
 
《20XX年 12月31日
 初めて二人で迎える年末。
 二人で年越しそばを作って食べた。
 菜月といると、なんてことのない日が、全部特別になる。
 来年も、再来年も、その先も。どうか、このままで。》


《20XX年 1月13日
 今日は朝から雪が降っていた。珍しい。
 他には、これといって書くような出来事はない。けれど、この日だけは忘れたくなくて、記しておく。
 十七年前の今日——菜月と出会った日だ。あの時も雪が降っていた。
 軽井沢さんが連れてきた小さな女の子は、肩にうっすらと雪を乗せたまま、人形をぎゅっと抱きしめていた。そんなことまで、よく覚えている。
 父が突然、「今日から家族になる。名前は菜月だ」と告げた。
 あの頃の俺は、父の行き当たりばったりなお人好しに呆れるばかりだったが、それで菜月と出会えたのも事実だ。
 あの日のことを、俺は一度だって忘れたことがない。
 毎年、この日だけは、どうしても特別に思えてしまう。》
 
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