義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
「──きゃっ!」
 
 抵抗らしい抵抗もできないまま倒された自分に、嫌気がさした。

「冗談じゃないよ」
 
 律の影が覆いかぶさる。
 視界いっぱいに、律の顔がある。
 
「姉さん、俺たち、血のつながりはないんだから」

 律の声はいつものように優しいのに。
 それが余計に怖い。
 
「ほんと、危機感なさすぎだよね」

 律は微笑みながら、私の頬を撫でる。
 背筋を、ぞわりと寒気が走った、その時。
 
『はい、宝堂です』
 
 スマホから、彰人さんの声が流れた。
 どうやら、はずみで再生ボタンを押してしまったらしい。
 けれど律は一瞥すらせず、ただまっすぐに私を見ていた。
 
「姉さん……」
 
 顔がさらに近づく。
 
「……っ」

 動けない。逃げられない。
 こんな、つもりじゃなかった。
 私は、律の気持ちを甘く見ていたのかもしれない。その思い上がりごと、今押し倒されている。
 でも、真実のためなら……。覚悟を決めて、ぎゅっと目を閉じた。
 吐息がかかる距離。
 お互いの唇が触れそうになった直前──
 
『……久しぶりね、彰人くん』

 甘く、撫でつけるような声。
 耳の奥に残る香りまで立ち上るような、艶のある女性の声だった。
 ギシ……とベッドの軋む音がして、律の気配が遠のいた気がした。
 覚悟していたはずの先が、いつまで経っても訪れない。
 固く閉じていた瞼をおそるおそる開くと、目の前で律がこちらを見ている。
 さっきとはまるで別人のように、血の気の引いた顔──。
 この世の終わりを突きつけられた人間の、絶望そのもののような表情だった。
 
「この、声……!」
『茉莉乃さん……?』
「田口、茉莉乃……ッ!」
 
 彰人さんの震えるような声と、律の締めつけるような声が重なった。
 次の瞬間、律は弾かれたように上体を起こし、駆け出すように部屋を飛び出した。
 
「えっ、ちょっと……!」
 
 わけがわからず、私は律を追いかける。
 玄関で、律が靴を乱暴に足へねじ込んでいるところに追いついた。
 
「律、どうしたの!? なにが──」
「姉さんは来るな!!」
 
 今まで聞いたことがないほど荒く、鋭く、剥き出しの感情だった。
 その怒鳴り声に、足が固まる。
 律は靴の踵を踏んだまま、外へ飛び出していった。
 
 スマホからは、まだ彰人さんと女性の声が流れ続けている。
 だけど、頭に入ってこない。
 私は玄関に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

(でも……助かった……)

 ようやく思考が戻ると、身体が遅れて震えた。
 律にキスされそうになっていたのだと、今さら理解する。
 現実味がなくて、まるで自分を遠くから見ているようだった。
 どっと疲れが出て、ゆっくりと壁にもたれかかる。
 彰人さんが救ってくれたような気がして、スマホをぎゅっと握りしめた。


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