義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
 それにしても、律のあんな顔、初めて見た。
 再びベッドに腰を下ろし、スマホを両手で包む。
 あの女性の声を聞いた途端に──

「たぐち、まりの……」

 口に出してみるけれど、覚えのない名前だった。
 誰なんだろう?
 彰人さんも、律も知っている女の人。
 私だけが、知らない人……。
 
 さっきの続きを聞かなければ。
 律がいなくても、なんとか一人で。
 もう一度、最初から再生する。

『はい、宝堂です』

 彰人さんの、落ち着いた声。
 少し懐かしくて、胸が締め付けられる。
 
『……久しぶりね、彰人くん』
『茉莉乃さん……?』
 
 彰人さんの声は、なんとなく戸惑っているような気がする。
 
 名前で呼び合うような関係なんだ……。なんだかモヤモヤする。
 そういう仲だった? ……いいえ、彰人さんに限って、そんな。
 でも、『久しぶり』と言うなら……過去に接点があったのは間違いないだろう。
 元恋人の可能性も、拭いきれない。

『ちょっと頼まれてほしいんだけど』
『はぁ……またですか』

(また……?)
 
 口ぶりから察するに、元恋人……というわけでもなさそうだ。
 
『断れば、どうなるかわかってるわよね?』
『……ええ』

 なんだか物騒な感じに、ヒュッと息が細くなる。
 彰人さんは、脅されていた……?
 
『ふふ、相変わらず真面目ね』
『それで、どうすれば?』
『アタシの言う通りに動いてちょうだい』

 その時、玄関の扉が開く音が聞こえた。
 律が帰ってきたのだろうか?
 一旦再生を止めて出迎えると、養父と軽井沢さんだった。

「お父様……軽井沢先生!?」
「今、律くんとすれ違ったけど、なにかあったのかい? やけに慌てていたけど」
「それが……」

 先ほど、アプリの通話内容を聞いた途端に律が出て行ってしまったことを伝える。
 
「電話の向こうの女性の声を聞いて……急に」
「女性……?」
「〝田口茉莉乃〟と。そう言っていました」

 名前を聞いた瞬間、養父が目を逸らした気がする。
 
「ちょっと見てくる」
俊!(とし)
「すぐ戻る」

 養父が呼び止めたけれど、軽井沢さんは脱ぎかけたコートを再び羽織り出ていった。
 バタンと扉が閉まる音に私と養父だけが取り残されたようで、部屋の空気が急に重くなる。
 沈黙に耐えかねたように、養父が口を開いた。
 
「菜月……茶を頼めるか?」
「はい……」
「おまえにも同席してほしい」

 促され、私はお茶を用意して応接室へ向かった。
 
< 68 / 106 >

この作品をシェア

pagetop