義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】
「すまない、これは出ないとまずい。ちょっと席を外す」
「え……?」

 養父は立ち上がり、扉の向こうに消えた。
 部屋には、私と軽井沢さんだけが取り残された。
 話すこともなくなり、しんと静まり返る。
 軽井沢さんが、手を組み替えてそわそわし出した。
 
 何か言いかけた時、私のスマホが震えて、びくりと肩が跳ね上がる。
 画面に表示された名前に、嫌な予感が脳裏をよぎる。
 軽井沢さんにも聞こえるように、私は慌ててスピーカーに切り替えた。
 
「律……! 今、どこにいるの!?」
『姉さん……』
 
 返ってきた声は掠れていて、ひどくくぐもっていた。
 電話越しでも、まともな状態じゃないことがはっきりとわかる。
 
『今すぐ、ここに来て……』

 その直後、電話の向こうから何かを引きずるような音と、うめき声にも似た音が聞こえた。
 電波が悪いのか、距離があるのか、はっきりとは聞き取れない。
 それが余計に、胸をざわつかせる。
 
『田口茉莉乃をつかまえた……。一緒に、兄さんの仇、取ろ?』
「律!?」
 
 言葉の意味が頭に届く前に、血の気が一気に引いた。

「おい! 律くん、早まるんじゃないぞ! 俺もそっちに行くから!」
 
 軽井沢さんが立ち上がり、声を荒げる。
 
『住所はね──』

 律は淡々と住所を告げる。一呼吸おいて、
 
『待ってるね』

 と、弱々しく、それだけ言って通話を切ってしまった。
 
「……律!? 律!!」
 
 呼びかけてもすでに返事はない。
 ただ耳に残るのは、最後の『待ってるね』の言葉。
 さっきまで自分の痛みに浸っていたのに、もうそんな余裕はどこにもなかった。
 頭の中で、最悪の想像ばかりが膨れあがる。

「……行かなきゃ」
 
 立ち上がる足は震えていたけれど、止まる気はもうなかった。
 軽井沢さんも同時に席を蹴る。
 
「車だ。すぐ向かうぞ!」
 
 空気が、一気に張り詰めた。
 息を整える間もなく、何かが動き出す。
 ──律を止めなければ。
 その確信だけが、今の私を前に押し出していた。
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